1993
最初の正行寺講演
1994
第九回ロンドン会座講話
1995
禅ガーデンの創造
1997
正行寺の未来について
1997
三輪精舎石庭
1998
教育について
1999
初期仏教と現代科学
2000
出会いの三輪精舎
2001
現実の出会いについて
2002
無執着について
2003
空について
2004
禅と庭園の創造
2005
逆説について
2006
阿弥陀仏の 第十八の本願から 生ずるもろもろの反省
2008
現代科学と根本的仏教思想
2009
正行寺と佛教と言語
2010
飛石と公案
2011
佛教とバガヴァド ギーター
2012
正行寺の将来について
2013
浄土真宗とプロテスタントにおける信仰による義認
2014
禅ガーデン
2015
すべての有と無の一如
2016
迷想について
2017
一如と逆説と芸術
2018
仏教と逆説と実在
2019
芭蕉について
2020
仏教と俳句
2021
阿弥陀佛と超越と他者性
禅ガーデン
これは、ロンドン三輪精舎の石庭を中心にしたものではなく、さまざまな禅庭を対象とした講話である。
禅ガーデンについて話すように頼まれた場合、実はどんな庭についての話でも同じですが、先ず最初に想い起こさねばならないのは、芸術作品は決して言葉には翻訳できないということです。
芸術作品は、本来、視覚的であり、言葉を必要としません。
芸術作品は、経験すべき物です。言葉の領域を超えており、どれだけ話しても捕えることはできません。
詩であろうと、散文であろうと、或いは論理的分析であろうと、言語というものは、方向を指示する以上のことはできません。
言語というものに出来るのは、精々、通常私たち自身を取り囲んでいる無知の雲、誤解の山を消し去る手伝いだけです。最悪の場合は、もう一つの克服すべき障害を作り出してしまいます。
禅ガーデンには無数の形があります。その形は、寺によって、宗派によって、時代によって、設計者によって、異なっています。それで、私は、場合によっては中国の風景画に近似点を持っているように見える、初期山水型の庭からではなしに、平坦で石と苔と白砂より出来ている枯山水型の庭から始めたいと思います。
その理由は、一つには、枯山水型の庭はいかにも明らかに芸術作品であるからであり、一つには、何も知らない愚か者ながら、枯山水型は私の最もよく知っている型の庭であるからであります。
枯山水型の庭は、1467年から1477年まで続いた壊滅的内乱(応仁の乱)の後で発展しました。それは、枯山水型の庭が経済的で、泉水や流水を必要とせず、書院造りという畳が基本の簡素な室内装飾の建築にも適合していたからというばかりでなく、生長しつつあった日本的禅思想の内面を最も純粋な形で表現するものであったからでもありました。
無言の瞑想を強調するこの手の宗教思想の最高の表現の一つとして、15世紀の終わりか16世紀の始め頃に建立された龍安寺の庭を必ず挙げなければなりません。私はそこで只坐って何時間もの時を過ごしました。
ここでは、空間がすべてです。それは、すべてのすぐれた禅ガーデンについていえます。もし禅ガーデンを造ることを考えるなら、始めるのはそこからです。
ただ石にだけ注目するのでは駄目です。石はある意味で物差しに過ぎず、一つ一つの石は、ただ単に空間の中の空間です。
基本的な佛教用語でいえば、存在(有)と非存在(無)は等しいのです。
その上そこには、例えば龍安寺の場合、全部で十五個の石があるだけなのですから、その石の一つ一つがそれ自体の特別な質のために選ばれたというだけでなく、庭全体の中で果たさねばならない特別な役割のために選ばれたのだということも、また明白であります。
龍安寺は最も大きな禅ガーデンの一つでありますが、それは、その上、壁を回らした空間であり、この空間が一つの大海原―遙か遠方にまで広がって島々の点在する広大な海―になっています。
とは申しましても、石のグループのいずれかをご覧頂きさえすれば、大宇宙の場合のように、この小宇宙においても、石のグループとグループの間の距離だけでなく、一グループを構成する一つひとつの石の間の空間もまた、石と石の間の対照や共鳴が大切な役割をしているように、非常に大事な役割を果しているのだということがお解かり頂けると思います。
一つ一つの石は、どれを取って見ても、その石そのものが非常に重要であることはいうまでもありませんが、それと共に、それに隣接する石だけでなく、庭のその他のどの石との関係においても、非常に重要であると言わねばなりません。
庭の右側の二つのグループに関していえば、垂直と水平の対照の美しさ、大石同士の間隔の計算し尽くされた正確さというか、或いはその方がよければ、その間隔の直覚的な正確さ、二つのグループの全体としての力動的な均衡、そしてその二つのグループの両者を隔てている空間との関係、これらは実に素晴らしいものであります。
庭園の全体的静けさの中で、他のすべての石と好対照をなす右端の石の頭の切断面の大胆さは、前面にあるグループの主石の複雑な構造と配色と比較すれば、なお一層強調されます。その前面のグループでは、主石とその傍に配置されている小さくて低く殆ど平らな石との間に、劣らず大胆な独特な形の対照があります。
龍安寺の庭のそういう面が影響しているかもしれないところが一点、三輪精舎にあるさほど重要でもない英国の禅ガーデンに見られます。その英国の禅ガーデンでは、龍安寺のそれと類似している最初の二石の組み合わせで、その小さな間隙を決めるのに半時間以上もかかりました。
その難しさは勿論、その他の十個の石のどれもまだ据えられていなかったという事実によって倍加しましたし、それは、実際にその決断をしなければならない時に見栄えが好いかどうかの問題ではなしに、庭全体が終わった時に適切に見えるかどうかの問題でした。
もっと難しかったのは、一つ一つの石を木製の三脚の下に釣って、正しく選んだ地点にまで持って行った時、庭のその他のすべての石と同様に、13センチの深さの白砂と8センチから10センチの土と苔が加えられて、庭全体が完成した時に、見せたいところが見れるように、それ以上でもなくそれ以下でもなく、正確にそこまで下げねばならないという点でした。
事実、左側の小さな石は、深く埋められた1メートルほどある円柱状の石の傾斜した先端に過ぎないのですが、その右側の大きい方の石の全体は殆ど表面に乗っているだけです。
殆どの禅ガーデンは、本当に、すべては幻想であるという基本的な佛教的信念の素晴らしい具現です。
最後に、一つ一つの石は、まだ吊り下げられている時、さもなければ単なる雑多な石の寄せ集めでしかないものを包み込む一つのリズミカルな流れを生み出すために、方角の正確さを期して誤差を2,3度以下に抑えて回転させねばなりませんでした。
しかしながら、広大にして静寂な空間という感覚を創造するのが可能なのは、比較的大きな規模においてのみであると考えるのは、大きな間違いでしょう。
例えば、寺院の外側ではなしに内側に包み込まれている、江戸時代に造られたこの小さな東海庵の庭は、非常に限られた範囲の中においてさえ、龍安寺の庭の―そして禅ガーデンの―すべての必要な質がやはりそこに存在していることを示しています。
ここには、七個の石があるだけであり、これまでにこれはまだ話したことがないのですが、すべての枯山水庭園における、白砂の線引きの重要な役割が、極めて明白であります。
龍安寺においては、熊手による線引きの筋目が、対角的線的眺望においてのみならず、長い観覧席の何処からでも、筋目を横切って左右を見る時に、大いに空間的感覚を増幅します。
三輪精舎においては、数百メートル間隔の波頭のある南の海の大きなうねりを思い出させる、もっと広く間隔を開けたより強い畝の遠近法的効果が、比較的小さな庭の長さを大きく見せるのに、大事な役割を果たしています。なぜなら、座禅のための東屋からの眺めは、畝を横切るのではなしに真直ぐ畝に沿っているからです。勿論それは、五時間ほどもかかる熊手の線引きが極めて正確でなければならないということを意味します。
東海庵の庭において、大事な秩序を確かめ、全体の完全性を保っているのは、熊手の線引きです。
ここで、おそらくは不適切な動物学的譬喩を使うならば、アルファ・メール(雄のリーダー)の役割をしているのは、最大の最も印象的な石ではなく、二つの翼のような三石グループの間に据えられている、寸法上だけでいうならばすべて石の中で最も重みのない、あの小さな石です。
それは真ん中にあるというばかりでなく、この石を起点として、線引きの同心円の輪が漣を立て、端から端まで縦横に庭全体を活性化しているのです。
何時もの如く、本当の禅ガーデンでは、すべての石の間の空間は、すべてのグループの間の空間と同様、石そのものの質と同じくらいに重要です。
しかし、龍安寺の十五個の変わりに、七個だと言っても、それはまだ沢山の石です。
その上、より広くはすべての俳句の十七音節ということにも表現されている、少なければ少ないほど効果は増すという典型的な禅の原則に基づいて、おそらく16世紀前半まで遡れる大仙院南庭は、全く一石さえも要らないということを十分に証明しています。
常に簡単に見える事柄については、何時ものことながら正しく理解することは極めて困難なのですが、もしこれを正しく理解したとするならば、筋目の立てられた平らな長方形の広がりから立ち上がっている、玄妙な美しさを持つ二つの円錐形の効果は、深遠であり得ます。
これは、しかしながら、私のような全く不遜なイギリス人には、どうして二つなのと、訝らせることになるかもしれません。
しかし、これはまた、私がたまたま、二枚の重い木の荒削りの板で出来ている、西アフリカはガンビア部族の作ったドアを持っていて、その中の一枚から非常に大胆な一対の女性的豊かさの象徴(乳房の形)が突き出ているのですが、それに比べると、そのような設定の下で適正なあり方をしているこの白砂の庭は、全く劇的と言っていいほど純潔高雅であるという答えがあってもいいかもしれません。
それはともあれ、大仙院にあるもう一つの大体同時代だと思われる禅ガーデンは、意図においても効果においても、これほど違うものはほとんどあり得ないでしょうし、そしてこの二つの庭園の対照は、一寺院の境内という限定の中に広い範囲の表現様式が見出されるということを、縮図的に示します。
この庭がある種の中国山水画と関係があり、したがって日本の山水画とも関係のあることは、一目瞭然であります。
そこでは、寄り添う二つの垂直な岩の高い絶壁の、遥か向こうにある一連の山から、掃き清められた乾いた白砂の川が滝となって落ちて来ています。その川の眺めは二つの岩の絶壁によって遮られるのですが、川の流れはそのすぐ後に一枚の薄い平らな石で出来ている細い橋の下を潜って、川を横切って並んでいる小さな石の堰を通過し、両側に大胆な対照を見せている大きな石の並びを早い速度で通り抜けて行きます。
湾曲しながら流れ落ちる川は、既に明らかな一つのこと、つまり、すべての灌木やシダや松の木は、石そのものと同じように、注意深く選ばれ、設置され、選定され、対照されているという事実を確信させてくれます。
どれほど速く、どれほど容易に、そのような秩序が混沌に堕するかは、17世紀初期の等覺寺の庭の様々な相に現れている、色も鮮やかに楽しそうなそのごちゃ混ぜの寄せ集めに明かに見て取ることができます。この等覺寺の庭においても、見て頂いている詳細な写真で明らかなように、これも一枚の石板で出来ている石の橋が横切っている、一つの枯れた石の水流があることはあるのですが。
龍安寺でも、東海庵でも、三輪精舎の庭においてさえも、どの石もただ表面に乗っているだけとは見えないものだという基本的な原則が、明々白々としてあります。一つ一つ石はすべて景色全体の中から生え出ているように見え、またその一つひとつは全体の中で不可欠な恒久的部分です。
ここでは反対に、小さなものからかなり大きなものまで、沢山の石が、この独特な一続きの滝状の流れの中で、不規則な蘇鉄の葉のジャングルの間に、ただ露出しています。
龍安寺と大体同時期ではあるが、日本の池庭初期の伝統を反映している、15世紀後半の常栄寺の庭の諸相は、広大ではあるけれども、それにも拘らず深遠、全く別種の微妙な視覚的領域を表現していて、比類ないものだと言わねばなりません。
左の図面から解りますように、それは等覺寺のそれとは全く別な世界であり、五十ほどの石があるけれども、それらはすべて一、二の小さな低い石の例外を除いては、地質学的に一種類の石でなっており、色彩は主として中間色のグレーです。
正行寺の異質の調和という原則を反映して、それを禅ガーデンにまで適用したために、十二個の石の間に地理学的に見て凡そ八つの種類の石があり、それ故に非常に沢山の肌合いや形や色彩の石が混じっている三輪精舎の庭と、この常栄寺の庭を比べて見ると、その対照はそれ以上はあり得ないほど際立っています。
常栄寺において創り出されている流れと空間的力動感には、単純な散乱とか乱雑なごった返しというような感じは全くありません。視線をどこに向けようとも、眺めはいつも最高です。あなたがいるところ、それはどこでもあなたがそこにいることを予想して作られています。
凡そ同時代に造られた龍安寺の枯山水庭園でも、同じことが起こっています。ただし、龍安寺の場合は、その庭の長い廊下に、並び方に制約のある十五個の石のすべてが、完全に見える特別な点が一箇所だけあります。
常栄寺では、全く石の間を動く要なくして、すべてのグループのすべての石の完全さを感じることができます。座禅の場に坐っている観察者には隠されているすべての面が、見ることのできる部分と同様に興味を惹き起こすということは、実に、最高の禅ガーデンの栄誉あるもう一つの原則であります。
西洋では、この古来伝わる彫刻の伝統は、大英博物館にあるものの中で最も素晴らしい彫刻、紀元前5世紀半ばまで遡れるアテネ神殿の切妻に、最高の形で見出されます。
そこでは、見られることが全く予期されていなかったし、地上に降ろされるまでおよそ2,000年間見られることのなかった、人物像背後の襞のある掛け布が、常に見られることの予想されていた表の部分と全く同様に、注意深く完全に彫刻されています。
常栄寺においては、石の形の多様性と重要性、そしてそれぞれに三個から五個になっている多くのグループの間ばかりでなく、それぞれのグループの石の間の相互関係の精妙さは、まことに絶妙無比であります。
そこにある精妙さの一例は、五、六個ある上の平たい石の特別な使い方で、左側の図の左中央の石は右の図の中間距離にある上の平たい石へと目を引き、それが今度は広い芝生の空間を過ぎって遥か向こうに寄り合ってあるグループの中央の石へと繋がるのです。
見た目に重要でないもののとてつもない重要さは、非常に小さな石によって証明されます。そのうちの一つは、それがなければ、あの同じ広い空間一帯が池にそのまま入り込んで行く感じになるのを制御しています。その池の向こうには、半ば陰になって隠れている遠い背景に、庭を縁取りし山腹を上って自然界へと入って行っている樹木の間を落下している大きな枯れた石の滝を見ることができます。
必要とされる眼の鋭敏さと視覚的能力の重要性を理解するためには、1919年に造られた光明院の庭のような庭園を見るだけで十分です。
光明院の庭の非常に平凡な孤立した石の形の相対的な反復と共にその空間的弛緩は、常栄寺の庭と対照して見るとその差異には極めて大きなものがあります。
常栄寺の庭の第二番目に重要な点は、喜びと安らぎのもととなるもので、実にあの画僧雪舟が、1467年より1469年まで二年間の中国留学後、1484年から始まった十七年間に亘るこの寺への滞在中に、この庭を造ったらしいという可能性を増強する役割を果たします。
禅ガーデンの書きものにはしばしば中国の影響が語られるのですが、そのほとんどはむしろ曖昧で一般的なものでしかありません。しかし、左の雪舟の水墨画から見てとれるように、常栄寺の庭を画家雪舟の作品であると判断できるというのは、それとは大分違って決して曖昧なことではありません。
それは山水画であって、はるか遠くにある左側の小さな船が示すように、それらは本当に山であります。
他方では、庭の方に向いて、特に右側の前景辺りの大きな石を見れば、見てとれるように、それらは疑いなく石であり得ます。
庭においても雪舟の絵においても、石と山は一つのものとしてあり、存在するもの一切の一如という仏教の中心にある信念を表現しています。そこでは、石と山、樹木と苔、広大なものと微小なもの、有機と無機、丸い石と剪定された躑躅が別々ではありません。
冬には茶色に転ずる微妙な起伏のある常栄寺の緑の芝生のあらゆるところで、すべての石のグループの中で、小さく剪定された躑躅などの灌木がみんな大事な役割を演じ、独自なあり方をしています。
実際、石と草木の互換性は、池に達する前の背景にある、石を山頂にしている灌木の山、円錐形の富士山に具現されています。
龍安寺の庭も常栄寺の庭も、15世紀の終わり頃、室町時代後期に起こりつつあった諸々の変化の初めの頃の代表ですが、最初は両方に共通するものは僅かに見えるかもしれません。しかし、実際には、これら二つの庭は、その新しい発展に重要であった二つの革命的特徴を共有していて、その革命的特徴の一つは、それまでに比べて遥かに増大した、個々の石の重要性の強調です。
第二番目の特徴は最初の特徴から直接的に出てくるのですが、それは中間にある空間に対する新しい関心です。空白は今や固形物と同様に重要です。
庭と景色、工夫と自然の関係は、勿論、龍安寺の場合よりも、さらには常栄寺の場合よりも、もっと密接な関係に成り得るのですが、池庭である後者の場合は、先行する時代から変わらずに生き残っている、比較的少ない本流により近いのです。
1945年の空襲で破壊された東光寺の本堂の前の池は、江戸時代に改修されたものですが、東光寺の庭園の大部分は、想像では凡そ1270年頃と思われる早い時代からの生き残っている最も美しい例の一つです。
この庭は上昇する地面を背景としてその前に造るのではなく、実際には池にまで自然に流れ落ちる斜面の上に造られ、石は斜面と共に流れ落ちるように見えます。
しかしこれは偶然ではありません。自然な自然との融合を背景として、非常に巧みな工夫の世界があることは明白です。
この図においても、再建された本堂の客間から見える、反復的な石の対角線においても、丘の斜面を池に下る流れは、明らかに高度なまとまりが見られます。
特に左側の図面の水際には、その形においても配置においても、注意深く計算された調和と対照をもつ、多くの美しく大きな個別の石があります、
それにも拘らず、石全体の数量と接近し合っている重複は、15世紀の変わり目の古典的な石庭と比較すると、個々の石の全体的形と個性の強調が遥かに少ないということを意味します。ただし、大きさの大きな変化によっておこる垂直方向の強調が起こってはいます。
自然界との結びつきは、保国寺の庭のような池庭では遥かに大きくなっていて、そこにある石は、形も大きさも大いに相異なっていますが、この場合樹木の生えている斜面を滝のように下降しています。
左の方では、かなり小さな石の無頓着に見える寄せ集めが草木の間に据えられており、右側では、より大きな石のグループが同様に行き当たりばったりに衝突しているように見えますが、同時にそこには、斜面の頂上にある遠くの大きな形の石から、池の向こう側の水中に立っている石まで、大きな石の流れにリズムがあります。
東光寺の今はいくらか改修されている庭の建設の基礎となっている繊細さと巧妙さは、浄居寺の17世紀の庭のそれとは強い対照を成しています。
そこでは、かつては小川であったところに転がり落ちる石が、大部分は、山の自然なガラ場や落石場に当たるものというか、近似するものとして造られているように見え、そのために結果する視覚効果としては、人工的要素がしばしば非常に小さく見えます。
言外の動きというか、不動の石の動という結果ということから言えば、私は1535年に造られた瑞峯院の庭が対極にあると思います。
主要なグループには全部で僅かに一ダースほどの石があるだけで、内部に上向きの美しい筋目のある、少し傾いた最初の導入的石から少し離れて、お互いに寄りかかっている三つの石の並びが、右側への流れるような動きに加速をつけています。これが次には湾曲し、二つの剪定された生垣のある隅で、最後の美しい脈の付いた石に止められるまで、急勾配をつけて登っています。
佛教の言葉でいえば、庭そのものが公案、矛盾の言葉、論理を超えた世界の表現です。すべての本物の禅ガーデンのように、すべては逆説であり、空であり、幻想です。複雑な思想は、瑞峰院の場合、おそらく俳句の十七文字に圧縮できるでしょう。
静けさや 川逆上り 波もなし
限りなく変化しながら日本中に広まった初期枯山水型の模倣は、20世紀までにその本来の宗教との関連性をほとんどすべて失い、大部分は寺院からは大きく逸れて大きなホテルなどの敷地に移り、時には、少しの砂と僅かな選び損ないの石という形で、ガソリンスタンドのようなものの前庭にさえも見かけられます。
禅寺そのものにおいてさえも、多くの場合、庭園と関連建築物は、非常に装飾的な機能を入手して、観光客の呼び物とか博物館というような役割を身に付けました。
おそらくはあらゆる意味において、宗教的関連から逸脱したものの中で最も素晴らしい例は、1970年に開館された日本画の足立美術館にとって、その絶対必要な一部となっている諸庭園であります。
まずはじめに、その諸庭園は、數平方ヤードというのではなく、13,000坪余りもあります。英国流に言えば10,5エーカー以上です。
枯山水的影響は、壮大な主庭園において明瞭であり、それは遠方の森の丘に向かって右方向に継ぎ目なく展開しており、しかも同時に何が自然で何が自然でないかという問題点を巧みにかわしています。
景観の非常に印象的な特徴である滝は、実際にはポンプで稼働しており、その真上とその右側の木々は、丘の禿げた部分に散在している木々と同様に、注意深く植えられており、細心の注意力をもって剪定されています。
左の方を見て頂きさえすれば、大変多くの古典的禅ガーデンの根本的特徴である自然な自然との連結が、広大な規模で造られていることをお解り頂けると思います。庭が殆ど途切れなく入り込んで行っているように見える山々、目が白砂の入江によって導かれて行く山々は、実際には何キロメーターも離れています。
庭は山に入り込み、山は庭に成ります。
枯山水の伝統との比較において、足立美術館の庭に見られる第二番目の劣らず明白な影響は、17世紀に入って変化する政治的社会的傾向が偉大な禅寺の宗教的力の衰微に繋がるに従って、重要性が増大して来た茶庭の影響です。
これは、沢山の大きな剪定された躑躅に反映されており、この躑躅は石そのものと同じような重要な役割をします。石州流茶道の創始者によって1663年に造られた慈光院の庭のような躑躅の庭が思い出されます。
そこにおいて、本物の石は、その希少さのために、また、大きな丸く刈り込まれた躑躅の石の役割りに比べると、決して重要でないことはないのですが、その比較的小さな役割りのために、注目に値するといえるでしょう。この剪定された躑躅は、独占的とまでは云わなくても、この庭の非常に重要な特徴となっています。
勿論、その規模は足立美術館に比べると目立ちません。緑のまるい灌木は足立でも地面の上に根本を見せずに平坦に横たわっています。
足立美術館の大きな石の多くは、キログラムとかトンではなしに、何10トンもの重量があり、たとえば三輪精舎でもやったように、スコップや木材の三脚を使用しながらの、いまだに使われている伝統的建設方法は、やむを得ずブルドーザーやクレーンに取って代わられました。
何世紀もの間伝承されてきた伝統の中で生き残ったのは、眼と想像力の感性であり、その感性は、このような広大な規模の場合でも、すべての景観が、見たとたんに、最も重要なものに見えるようにします。
どのように焦点や方向を変えても、小さかろうが大きかろうが、そこに見て取れるものが、最も大事な景観です。一つひとつの石、一つひとつの丸い緑の躑躅石の設置、すべての木の幹の配置と傾斜、一本一本の松の枝の剪定、それらは徹頭徹尾計算し尽くされているようです。
庭園は、生きている絵画であり、美術館そのものにある実際の絵の画廊の三次元的延長であって、景色を絵にし、絵を景色にするということが、全ての決断の根底にある根本的な前提です。
これは形ばかりの言葉ではありません。すべての窓がそれ自体実際に絵画であるかのように配置され設計されているのです。
本当に絵画の窓というこの着想は新しい意味を帯び始め、その庭そのものに非常に明白に表れている制御という要素が、今や観察者の心を大きく包み込むようになり、禅寺の境内にある観覧席や廊下や通路がむしろ自由に見えるというところまで行きます。
それでもなお、全体的な世俗世界への動きにも拘らず、私自身の生涯にはまだ本当の禅ガーデンがあり、それは本当に巧妙に造られていて、単なる模倣の及ぶところではありません。
私は特に1958年に造られた龍源院の小さな内庭のことを考えています。僅か五つの石だけ、七つではなくてこれは東海庵の庭よりも遥かに小さく、東海庵の場合に見られた調和の要素は、ここではより鋭くより力動的な均衡になっています。
ところで、二組の同心円の輪は、間を大きく開けた二組の石のグループのそれぞれを保持する助けとなっているのですが、一方では、両端に流れている線引きの筋の平行線が、その二グループを隔てると同時に、庭の周りの狭い長方形の大事な形を表現して、二グループ間の空間の広さを大いに増長しています。
瞑想のために私が訪れたいと思うのは、何か他のことが心にあって造られた足立美術館の景観の素晴らしさよりも、むしろこのような庭の静寂さです。おそらくはいつの日か禅ガーデンの禅に参入することを望み得るのは、この静けさの中で静かにしている場合だけだと思います。
三輪精舎の庭に関しては、何年も前に書いたものですから、何人かの方々はすでにご存知だろう俳句で終わりたいと思います。
この庭で 浄土立てつつ 彌陀の待つ
Talks at Shogyoji
by John White