1993
最初の正行寺講演
1994
第九回ロンドン会座講話
1995
禅ガーデンの創造
1997
正行寺の未来について
1997
三輪精舎石庭
1998
教育について
1999
初期仏教と現代科学
2000
出会いの三輪精舎
2001
現実の出会いについて
2002
無執着について
2003
空について
2004
禅と庭園の創造
2005
逆説について
2006
阿弥陀仏の 第十八の本願から 生ずるもろもろの反省
2008
現代科学と根本的仏教思想
2009
正行寺と佛教と言語
2010
飛石と公案
2011
佛教とバガヴァド ギーター
2012
正行寺の将来について
2013
浄土真宗とプロテスタントにおける信仰による義認
2014
禅ガーデン
2015
すべての有と無の一如
2016
迷想について
2017
一如と逆説と芸術
2018
仏教と逆説と実在
2019
芭蕉について
2020
仏教と俳句
2021
阿弥陀佛と超越と他者性
現代科学と根本的仏教思想
最早遠い昔のように思われる一九九九年、私はここ正行寺に来て皆さま方に「原始仏教と現代科学」という話をしました。それは本当にもう既に過ぎ去った前世紀のことでした。そして、今世紀がいろんな面でこれほどまで変わってしまうとは、当時誰一人として予想出来ていないことでした。
ただ一つ確かなことは、人間の本性は殆ど変わっていないだろうという予想でした。
私たちを今の私たちたらしめているのは、人間のゲノムの配列だといえますが、その完全な遺伝コードを解明しようとしている遺伝学は、すごいスピードで発達しており、私たち人間の数もまた、すごいスピードで増え続けています。その結果、当面は動物だけに限られていますが、すでにクローン化の道を辿り始めているし、そればかりでなく、私たちが私たち自身の進化を支配することができるように、恐らくもっと正確には、それに干渉することが出来るようにという方向へ進んでいるのです。
イラク、アフガニスタン、スーダンや、その他数え切れない国々における私たちの行動から、また、それぞれに独特な生態学的システムを持っている世界中の森の荒廃ぶりから、そしてまた、古くからある帯水層と呼ばれる水源の枯渇、地上の鉱物資源の加速的な消費と枯渇、現在では、それに加えるに、世界中の海洋魚類の存続を危うくするほどの過剰漁獲に至るまで、このような様々なことから、私たち人間がそのような力を持つことが、いかに不適切であるかということは、容易に見て取れるところであります。
それに関して非常に沢山の話し合いが繰り返されているにも拘らず、あちらでも、こちらでも、見解が狭く、非効果的で、しばしば間違った考えに基づいており、政治的な方向性を持った提案であることが多いために、人類は全世界の異常な気候変化をますます助長させ続けることになっています。
しかしながら、一九九九年にお話して以来その後も色んな形でうんざりするほど繰り返してきたことですが、宗教的信仰と科学的方法は明らかに別なものであるにも拘らず、仏教思想の根本的な基礎構造と現代科学の関係は、非常に重要な形で益々近づいて来ているように見えます。
複雑に絡み合っている問題を解決しようとして、多くの異なった科学分野を統合していっている現代の生態学的研究(環境問題)と気候変化(温暖化)への関心は、二つの明らかな実例であります。
生物学的研究においては、十九世紀と二十世紀における学問的区分と、それらによって起こったところの遥かに特殊化した方法と研究対象をもつ、一見別々のもののように見える、さまざまな科学分野の境界は、現在次第に乗り超えられ無くなりつつあるのです。
人間は、いよいよ、他の動物と別なものとしてではなく、動物王国の完全な連続体の中にこそ、生来の場を持つものとして見られるようになって来ています。
しかしながら、おそらく、すべての中で最も顕著なのは、かつては明白だった有機世界と無機世界の区別の崩壊、つまり生きているものと生きていないものの区別の崩壊です。今や生命の定義に関しての統一見解はありませんし、鮮明な分割線を引くことは、もはや、大した意味をなしません。なぜなら、そのような分割線がたとえあったとしても、それがどこにあるべきかについて、誰もはっきりした確信はないからであります。日本の古代アニミスト(神道の人々)は、その実際の信仰はどれほど非科学的であっても、もしこのような現代科学を知ることが出来きていたならば、ある意味では現代科学に対して本当に親しい感じを持ったことでしょう。
物理学においては、常に増加し続けている数学者と理論家の大群が、それに対する実際的証明がないような、場合によっては実際的証明は決してあり得ないような、時には殆ど起こりえないような計算値をもって、今や実験物理学者と一緒になって、殆ど取り付かれたようになって、統一理論の研究を行っています。この統一理論というのは、原子より小さい素粒子のレヴェルで、今までのところでは両立不可能に見える量子力学と重力の理論的要請を一つにしようというもので、この二つを、これまではアインシュタインの相対性理論の中に組み込まれてきていた宇宙の大規模な構造と共存できるようにするという形で押し進めています。しかしながら、こういう試みは今のところ、益々、可能かもしれない修正理論の対象となるものと見られるようになって来ています。
その最後の結末はどうなろうとも、「存在するものはすべて根本的に一如である」という佛教的概念ほど近いものはないでしょう。
空 縁起(相互生起) 不変なる 別個の自己の無きこと 抽象的な概念 あるいは そういいたければ 遠い昔の佛教概念 宗教的信仰の 琥珀の中に 埋め込まれたとものともいえるだろう すなわち あなたが熱帯雨林に入る までは つまり あなた自身で あるところの その生態学的システムを見るまでは つまり あなた自身に 見えている 「あなた」が あるいは他人に 見えている「あなた」が どのようにして あなたの会った人々との 一生涯の 出会いを通して 幻覚の世界 鏡の間で 存在する 唯一の実在に 進化したのかと問うまでは
事実、人間生物学の領域においては、密接な関係にある自己という概念と意識という概念のそれぞれを連続的な切れ目のない存在として見るというのは、最早、フィクション(作り話)に過ぎないという理解が生じています。つまり、自己とか意識とか言う概念は、私たちの進化の過程で、自分の住する外的妄想の世界を受け入れ、理解して、そこで行動し、生きながらえるために、私たち自身が造り上げた心的な構築物に過ぎないというのです。
重ねて申し上げることになりますが、表面的には両立不可能に見える仏教的直感と現代科学思想は、現代科学が最初に現れて以来、今までになかったほど相互に親密になっているのです。
やっと本当に科学的になりそうな兆候を示し始めている社会科学の諸分野において、日常生活の行ないに直接的な関係を持つ多くの事が、最近十年の間に発見されました。
教育においては、教育を学校や大学の専門家、それも大概は給料の低い教育者の手に委ねることと思ってしまう、根深い分類習慣が私たちにありますが、家族の親の数がどうであろうと、教育の基本的にして不可分な学習の場は家族であり家庭であるという理解が出て来たことによって、これまでの考え方が覆されるという兆候がいくつか現れて来ています。
不当に分離されて来た家庭と教育を再統合するというプロセス(過程)と、親が子供達を育てるに際して直面する日々の問題の根本原因を明らかにし始めている基礎科学研究の光を家庭と親達の心にもたらそうとするプロセス、この二つのプロセスが現代科学の今直面している幾つかの主要な難問への取り組みと直結しているのです。
西洋における重大で最も心配な社会問題の一つであり、日本へも影響し始めている問題は、十代の青少年の行動の問題です。犯罪と非文化的破壊行動、銃とナイフと殺人に、最大の注目が向けられており、これは、特に販売拡大のために果てしなく強烈な刺激の話題を追いかけるマスコミの取り上げるところとなっています。
追加要因として、道路上で起こることは衆人の見るところとなるということがあります。家庭の範囲内で起こることは、一般大衆には殆どわかりませんし、警察やマスコミにもわかりません。
確かに家族内には、恐らくは多くの親たちがよく理解できないような一連の十代の行動があって、それに関する研究は、医学や社会科学がここ二,三年間でかなりの進歩を示した領域であります。
私たちは、大人として、大人の観点から世界を見る傾向があります。勿論、どんな子供も『父母恩重経』に対応するものを書いたことはありませんし、親子の関係を論ずるに際して、その強調点は子供が親から受取ったものに感謝する必要があるというところに置かれているように見えますが、一方では子供の観点からすれば、親がその子供から得るものへの同様な強調があるべきです。
子供は生んで下さいとは頼みません。子供にはこの問題の選択権はないのです。
理想の世界でいえば、子供の両親への無条件的愛というものもあるのでしょうが、私たちは、母親の子供に対する無条件的愛を当然のことと考えながら、次には、無条件的愛はいかなる借りも造らないということを忘れてしまって、子供がその母親へ義務を持つという考えに余りにも簡単に滑り込んでしまいます。
何も借りはありません。
本当に、何か義務とか責務ということを話さねばならないとすれば、最初の義務ないし責務は、両親が、話せばきりもない数多の理由によって、時には立派な理由によって、時にはそうでもない理由によって、場合によっては間違いで生んでしまったということさえ含めて、この世に送り出した子供達に対する親の責任でしょう。
その上、責務や返済や義務というような概念がそこに入ってくれば、理想像は衰退してゆき、真実の愛のきずなの中に施す人と純粋な施しと施される人を含むはずの「三輪」は壊れてしまいます。
世界中の多くの場所で、自分の義務を果すのは、偉大な善であり、社会のきずなであると見られてきました。しかし、義務というのは第二義的徳であり、私たちの殆どがそうであるように、純粋な愛をもってなすべきことをなしえない人々にとって役立つ次善であります。
義務を二次的なあるいは副次的な徳とするのではなく最も重要な徳とする見方は、義務を超えたものがあるということを忘れています。例えば、義務というものが非常に大きく見えている軍隊に於いてでさえも、一人の兵士が自分の同僚を救うために破裂前の手榴弾の上に身を投げて死んだ場合、彼の英雄的行為がいやしくも記録されていたとして、彼が死後に受取る勲章の表彰状は非常に頻繁に「義務の要請を超越した行為」として讃嘆するのであります。
不幸にして、世間一般では、親子の愛はしばしば無条件的なものではありません。
家族がその子供を幼児売春に売りとばしてお金を作るのは、東南アジアに限られたことではありません。
例えば、数年前のこと、オランダ当局は、アムステルダムから来る小児性愛者の虐待に子供達を提供することでかなりの額の収入を得ている一連の村落を発見しました。
実際に、世界中で、思春期の少年少女や若者たちを社会から阻害している主な理由の一つは、親の無知ばかりではなく、広範囲に及んでいる家庭内の残虐な行為と執拗な性的虐待です。
現代の世界では、子供達や思春期の若者ばかりでなく、若い成人一般の教育が、重要な関心事であり、家庭内でも家庭外でも、教育は子供達とともに親たちをも包含すべきであります。
最近の研究では、たとえば、相当数のティーンエージャーが家庭の内でも外でも刺激的な反社会的行動をとっているのは、必ずしも単純に無規律、無分別のためにとはいえないかもしれないということが証明されました。
ジェット・ラグ(時差ぼけ)は、日英間や日米間の大陸横断ないし大洋横断飛行をする人々の間で格好の話題となるもので、沢山の時間帯を通過する移動によって引き起こされます。
これはいわゆるサーカディアン・リズム(二十四時間周期の体内リズム)を、つまり定期的な日夜の交代によって動く体内時計を狂わせます。これは、人間も含める哺乳類において、大体二十四時間サイクルで働いているもので、夜間に行われる松果腺による睡眠促進の自然なホルモン体メラトニンの分泌のようなことをつかさどっています。
この体内時計がどれほど普遍的であり、どれほど深く根付いているものであるか、そしてまたあらゆる生命体の進化においてにどれほど早く存在し始めたかということは、二十年ほど前にその体内時計がバクテリア(細菌)のうちにさえ存在するということが発見されて、証明されるに至りました。
藍藻類として語られることが多い、光合成シアン基バクテリアは、この世に生命が生じた最初の頃より生き残っている種の生命体であり、一例を挙げるならば、合衆国のイェローストーン国立公園の温泉のまわりにまだ見出すことができます。
真正細菌として、この種のバクテリアは核を持たず、三十五億年もの昔に進化したものと考えられています。それは、ほとんど酸素がなくて、太陽から流れ出て突然変異を誘発する破壊的な紫外線から有機体生命を保護するオゾンがまだなかった頃のことです。
結果として、これらの細菌のサーカディアン時計はまだ、今日の非常に異なった条件の下でも、暁には細胞分裂の再生産的な過程を始動し、破壊的な突然変異の投射が極端になり過ぎると、日中には三時間から六時間その過程を停止して、夕方にかけてその過程を再開するのです。
これは過去二、三年の間に証明されたことですが、ティーンエージャーもまた体内時計を持っていて、サーカディアン・リズムに変化を起すのは、この場合は飛行による移動ではなくて、ホルモン活動の高潮と共に訪れる思春期の開始なのです。このサーカディアン・リズムというのは、一生の間にいくらかは変わっていくものであります。
大人はしばしば雲雀(ひばり)であったり梟(ふくろう)であったりしますが、小さな子供達の殆どが早起き雲雀の仲間です。
ティーンエージャーにおいては、反対に、時計が二時間ほど進んでいるように見えているのであって、睡眠促進ホルモン、メラトニンの形成が、プリ・ティーン(十三歳の誕生日前の子供達)の場合よりも遅くなっており、その過程が開始する前に一時間ほどもの遅延があります。
ティーンエージャーはそれ故に梟の仲間に加わり、夜遅くまで眠付けないでしょうし、彼らにとってはまだ夜の時間に、つまり体を目ざめさせる体内時計信号の約二時間前に、学校に行くために起されることになります。
結果として、彼らの多くは睡眠不足となり、慢性的なジェット・ラグ(時差ぼけ)とでもいうべきものに苦しみます。実に合衆国の調査では、十一歳から十七歳までの約二十五パーセントが、少なくとも一週間に一度は教室で眠りこけることになるのであり、その日は居眠りした後の方が勉強がよくできます。
皆さんの中でこれに対して疑問に思われる方々は、携帯電話、テレビゲーム、インターネット上の対談番組への耽溺(たんでき)というようなことの方が、もっと簡単でもっと確実性のある説明だと思われるかもしれないので、これと同じ現象が、そのような電気製品への誘惑や耽溺が全くない発展途上国でも観察されたということを申し上げておきたいと思います。
家庭内のもう一つの問題は、リアクタンス、つまり誘導抵抗です。これは、小さな子供達に本当にしばしば見出せる反対癖(へそ曲がり)に当る専門用語です。小さな子の五人に一人は母親の言った以外のものを着用するし、あれをしなさい、これをしなさいといわれて、正にその反対のことをします。
その学説に依れば、そういう行動の根底には、しばしば無意識にですが、自分の行為の自由が脅威に曝されていると見える時はいつでも、その行為の自由を再主張したいという衝動が働いているのであります。子供達が大人になにやかやをやめるように言われた場合には、それをもう一度やって次に止めることが多いという観察に、この仮説が確認できるように思えます。明らかに、自分自身の個性の本能的主張と、止めるのを決めたのは自分自身であるという事実についての本能的主張が見られます。
そのような行動には長期にわたる根深い進化論的論拠があるという考え方が提案されました。なぜなら、自分自身の決断をする自由は、後には生き残りのための有効な手段になりうるからです。そして、このような衝動は、間もなく家庭を去り世間で自分自身の独特な歩みをするようになるティーンエージャーの間では、着実に増加しています。
しかしながら、誘導抵抗(へそ曲がり)は子供達に限ったことではなくて、強い口調の禁酒・禁煙広告が学生たちにかつて以上の飲酒と喫煙を誘発することがあるように、深刻な損傷効果があります。成人の場合、学者一般と特に科学者のような自分の行為の自由を特別に大事にするこの二つのグループは、殊に強く誘導抵抗(へそ曲がり)を示す傾向があります。
これは、大分前に大勢の幼児専門家や教育者たちによってなされたひどい提案のように、どのような種の無規律も絶対に容認しなければならないというようなことを意味するものではありません。その意味するところは、そのような行動の根深い所から来る起源をよりよく理解することによって、苛立ちや瞋り、あるいは、配慮の足りない刑罰や脅しを引き起こすことなく、より静かにより賢くそういう問題にアプローチすることができるかもしれないということです。
実に、諸々の仏教経典は、宗教的信仰という非常に異なった文脈の中ではありますが、仏陀において最高の形で具現する根本の智慧、知識と理解を常に讃嘆し続け、筆舌につくせない悪の根源である無知を常に戒め続けています。
親が牢獄に出入りしているような場合が多いのですが、崩壊し機能障害に陥っている家庭が、現在のティーンエージ暴行の温床の一つであり、殆どが貧困や失業や恐ろしい住宅状況と深く関係しています。
しかし、この機能障害というものは、そういうことが生じている社会同様に、常に発展進化しているのであって、そういう機能障害の進化の最も迷惑な側面のひとつは、特に合衆国で流行している、親の完全な責任放棄であります。臨床的に深刻な行動問題、精神問題に苦しんでいない子供達にまでも、精神安定剤やそれに類するものを与えることによって、子供達を管理するというような完全な親の責任放棄です。
学校も子供達を助けるために多くのことができるけれども、もし解決というものがあるとすれば、その解決を見出さねばならないのは、家族内における家族の教育によってであります。
去年私は、小さな子供や、ティーンエージャーや、大人たちも同様に、群れを成したり徒党を組んだりする一般的傾向に関して、その進化論的背景になったと私が信じていることについて話させて頂き、人間は実に群集動物であると申しました。
その本能的な、色んな形で実際的でもある群衆行動の衝動が、私の思っているように制止できないものであれば、取り組むことのできるのは、そこから生じてくる社会的に悲惨な結果であります。
まず第一に、子供達やティーンエージャーの大多数は、彼らの住んでいる社会がどんなところであろうと、非常に行儀がよくて善良な市民として成長しているという事実が、もっと強調されねばならいでしょう。
第二に、社会は、闘争的な群集や徒党を形成しようとする衝動と戦うのではなくして、それと共に流れながら、それを善に転化していくべきです。
ボーイスカウト隊やガール・ガイドやその類のものは、注目すべき犯罪源ではなく、その分割されたパトロール分隊は、数知れない優しい行動を目指してお互いに競い合うべく、慎重に作られています。
学校の合唱隊や音楽グループやその他の多くの活動は、また運動の得意な人にとってはあらゆる種のスポーツが、リーダーシップの自然な成長を促進し、とりわけ、相互の協力と規律の遵守を奨励します。なぜなら、相互の協力と規則の遵守無くしては明らかにチームの成功も個人の成功も望めないことになるからです。
大人にとっては、自分たちの自己満足や自己宣伝のためではなしに、若者の才能を彼等自身のために奨励することが最も大事な義務です。
西洋では、過保護の傾向は抵抗を受けねばなりませんし、子供達の自然な探検志向や冒険心は抑圧されるべきでありません。誰かが怪我をするだろうからという理由で、少年たちに木登りを思いとどまらせるべきではありません。
冒険的訓練に含まれている危険は、ティーンエージャーや青年たちの自分自身を証明したいという衝動のはけ口としては、街頭の喧嘩沙汰よりは、ましなはけ口です。
私たち人間が動物であることの悪い面を強調し過ぎている点は、恐らく私自身に責任があります。過去十年間現代科学は、私たちが人間独特のものと考えていることがらの多くが他の動物たちと共通しているということ、そしてまた、動物たちは、その行動を通して、利他主義のようなものの進化論的源泉への洞察を与えてくれていることを証明した点において大きく前進しました。
個々の存在の生殖過程の成功を増大するという生物の特性を常に支えている自然淘汰(自然選択)が、どうして蟻や蜂のような群生昆虫に見られる自己犠牲や「利他現象」を支持しうるのかという、見たところ手に負えない問題に直面して、そういう群生昆虫においては、特別な番兵とか兵士たちも含めて、大勢の個々の働き蜂(蟻)が、巣が攻撃された場合には、巣を防御するために死ぬべく方向付けられているのを観察したダーウィンの解答は、そのような昆虫はすべて女王の直接的な親戚なので、その自然淘汰は血族関係のレヴェルで「利他現象」を支持するのであるということでした。
これは、実際には、グループでも働くし個人でも働くという自然淘汰多層理論の基礎となったものであります。
丁度一世紀を超えて、この考えは、一つの簡単な数学的等式のようなものにまで発展しました。この等式は、受領者達の利益と彼等の遺伝的関係の総計は、利他的行動をとる個々の不可避な犠牲よりも大きいから、血族の者たちが同じ遺伝子を伝えるという可能性ないし蓋然性の故に利他現象が支持されるのであるといいます。
この公式の予言的価値が蓄積的に証明されてきたにも拘らず、一定不変に利己性を支持するグループ内淘汰の遥かに強い力をグループ間淘汰が打ち負かしうるというこの考えに対して、大勢の科学者の断固とした反対がありました。
今や、この抵抗は、細菌やウィルス・レヴェルの実験室実験とこの分野の観察によって殆ど克服されてしまいました。
結果として、人間のグループが地方的なものから国際的なものまで進化する仕方に非常に大きな関連性を持ち、また一兵士が遺伝学的に関係のない仲間を救うために、躊躇なく自分のいのちを提供するのはなぜかという理由の説明として特に重要であるこの多層淘汰の考えは、着実に前進しているのです。
グループ内淘汰に対するグループ間淘汰のはたらきの最も善い例の一つは、ライオンです。ライオンは、各々の群の領域(テリトリー)がその群の主な財産であり、雌ライオンによって護られるのですが、しかしながら、そのうちの数頭だけが防御行為の全責任を取ります。
もし、ある一つの群の中で、そこに本来備わっている危険に関して、極わずかな雌ライオンしかリーダーとしての責任を取ろうとしないならば、余りにも多くのライオンがその少数にたかって暮らすことになり、そういう雌ライオンの遺伝子を伝える個々の機会を危険に曝すことになります。彼らの領域は、もっと多くの利他的雌ライオンを有する隣の群に取られてしまうことになり、その隣の群の方が生き残って利他的行動の遺伝子を伝えることになるでしょう。
私たち自身の特別な種(人間)に戻れば、人間の性道徳は、その現象の殆どが、雄の側の純粋に動物的な衝動に起源を持っています。この雄の側の純粋に動物的な衝動というのは、多くの哺乳類に共通のもので、自分自身の遺伝子を永続させ、その連れ合いをライバルの雄によって妊娠させられることから護り、出来る限りライバル達への雌の接近を制限し、このようにしてその子供達が本当に遺伝学的に自分自身の子供であることを確認するのです。
現代の社会的風潮と議論をその長い先行する歴史とともに考えてみれば、同様な性的誘引と結合が動物王国全体に広く行きわたっていることも恐らく認識されるべきです。
広い意味での人間の社会的道徳の根元は、利他現象の根元と同様に、進化の時間を遠く遡るもので、私たちの同僚であるチンパンジーのような類人猿によって例証されます。類人猿においては、共感と互恵という一対の本質的要素が容易に観察されるのでありまして、これは人間においては、あなたがしてもらいたいと思うようにしてあげなさいという普遍的道徳原則に発展しています。
攻撃があった後、そばで見ていた一匹が、犠牲者のところに行って抱きしめて慰め、直ぐに犠牲者の苦痛の悲鳴を静めてあげる、というようなケースの報告書は何百もあります。ある一匹が分かち合うべく食を与えられると、それは、以前自発的に毛づくろいをしてくれた相手に、進んでより多くを与えるということがあります。そういう親切は、思い出され、返されることになります。グループ内に出来ている社会的規則のかなり厳格な遵守が有り得るのです。
他者の苦難に同化して世話をする能力である共感が明白に現れている極端な事例が、一匹の捕獲された雌チンパンジーに見られた驚くべき行動に、恐らくは、縮図的に示されています。というのは、その雌チンパンジーのしたことは、以前の調教や訓練、あるいはそれ以前の同様の行動観察記録にも、その起源となりうる前例が全くなかったからです。
小鳥が飛んできて外壁のガラスに当って気絶してしまった時、ある動物学者が見ていると、そのチンパンジーは、そこへ行って、小鳥を取り上げ、木の上に運び上げました。そして次には、小鳥の羽を広げて、空中に飛ばせました。まだ気絶したままだったので、その小鳥は地上に落ちましたが、幸運にも回復して飛び去って行きました。
そのチンパンジーの全体的な状況把握が如何に限られていようとも、そして結果として、その行為は有効でない性質であるにしても、その反応は、別なチンパンジーに対してではなく、あるいは別な毛皮を持つ哺乳動物に対してでさえもなく、困難に陥っている全く別な種類のかなり小さな翼と羽毛を持つ動物への反応であり、それは驚くべきものです。
他の動物の心情的生活についての私たちの知識は日に日に進んでおり、より厳格な研究態度と処理作業によって、粗雑な擬人論、つまり人間的特質を研究対象の動物たちに不当に融合させる傾向は、かつてより遥かに問題にならなくなりました―この粗雑な擬人論というのは、私たち自身を動物とは全く異なるものとして見る、同様に間違った傾向の裏返しなのですが。
しかし、チンパンジーたちと同様、私たちの方も限界があります。
私たち人類は激増し、その善悪両面の能力が並外れた加速力で成長しているということはあるけれども、科学者も、僧侶も、教育者も、明らかに、賢くはありません。智慧は今どんな過去よりも遥かに必要となってきました。
人間の知性の根本的性質であり智慧の基盤である知識と理解がどれほど成長したとしても、智慧そのものは未だ供給不足です。
次の詩は大分以前に書いておったものですが、このトークを考え始めた時、心に浮かんできました。そして、この詩は少なくともこの話を終了させる方法を提供してくれるとたまたまそう思ったわけです。
教訓による 智慧は 迷想の 世界である そんなものは 何もない 智慧は すべての言葉を超えており 静寂の中でのみ 語られ 内から 湧き上がってくる 教師によって 教えられないものであり 用らく 愛であり 常に自己を超えて 働き出し ありのままに 世界を見るのである
Talks at Shogyoji
by John White