飛石と公案

はじめに

話の最初に、十分に意は尽くせませんが、小河正行さんに対する賛辞から、始めたいと思います。深い経験と専門的技術を持つ彼との友情がなかったなら、三輪精舎の禅ガーデン転輪多屋の飛び石の建設は、決して完成の暁を迎えることは出来なかったでしょうし、今は楽船多屋と呼ばれることになった家にある石組みについては、いうまでもありません。この上ない思いやりの心で、禅ガーデンの周りの木々の手入れに、繰り返し繰り返しロンドンまで来て頂く寛大さには、感謝の言葉もありません。

そこで、たった今申し上げたばかりのことなのですが、私は次のような和歌を詠みました。

正行君は

剪定している
樹々に
話しかける

両者は
実に一如である

樹は彼の一部となり
両者が共に
成長する


飛石と公案

ご存知のように、公案というのは、逆説というか、言語上矛盾して見えるものを指し示す禅語であって、それに対しては修行僧が数ヶ月ないし数ヵ年もかけて師匠の満足のいくような解答を見出そうと努力します。単純な知的解答は、決して妥当なものとは見られないし、受け容れられないでしょう。

有名な公案にこれがあります。

山流れて
河流れず


しかし、この公案に入っている逆説は、今日ではかつてほど不思議には見えません。

例えば、スムーズな線路を走るのろい電車に乗っているとして、アインシュタインが相対性に関して観察したように、動くのはプラットフォームで、静止しているように見えるのは車両の方です。

風のない日に緩やかな流れの河沿いを河と同じ速度で歩くならば、あるいは小さな船に乗って流れに任せるならば、速やかに流れ去るのは本当に陸の景色であり遠くの山であります。

更に、流れる山ということに内在する概念を少し方向転換して、単純に河の代わりに海を代用してみるならば、山の岩が流れ行きつつ海の波がとわに静止している三輪精舎の庭は、全くその通りとは言えないまでも、ほとんどと言っていいくらい、その公案の中心にある逆説の物理的な実現です。

事実、三輪精舎の庭を思うや否や、ほとんどの人々は、乾いた灰色の小石を直ちに海に見立て、そこにある不動の畝を波として受け容れることに、さしたる困難を感じないのです。

同様に、転輪多屋の庭の飛び石が芝生を横切って三輪精舎に向って流れていることについて、決して石が動く訳ではないのですが、そのことについて話すのは非常に楽しいです。

それ故に、ここの飛び石と禅ガーデンは、この点において、萩の商家(菊屋)の庭の水なき石の川と石の池にかなり類似しています。その商家の庭では、使われている大小さまざまな小石が、緩急の流れや静止した水の差異を反映しており、その家そのものは、黄褐色の小石の中に配置されている一連の黒い長方形の飛び石を横切ることによって入るようになっています。

萩においては、水のないところで、全てが水です。

しかも、一見完全に人工的に見える人間の作った環境においてさえも、日本のデザイナー達は、自然が何億年もの間既にやってきたことを、知らず知らずにやっているのです。

昔フォークランドに行った時のことですが、最も驚き最も深く記憶に残ったことの一つは、海に向かって緩やかに傾斜しているピート(泥炭層)の広大な地域を、明るい色の石で出来た数十メートル幅の数多くの枯れた川が、眼には見えない形で、流れているのを見たことです。

多くの公案に含まれている逆説が(私たちの理解に)克服しがたい障壁を引き起こすのは、私たちが日常経験の現実界において想像力は使わないで、ただ知性の論理的世界にのみ留まり、その内容を心の一室だけに引き止めているからであります。

私自身は、公案の存在を知る遥か前から、突き出した断崖のある山のことを、渓谷の波底から立ち上がる大きな怒涛と見ていました。

アルプスやピレネーの、あるいはシベリヤと中国西域の間の、連続的な山脈の尾根や皺の多い景色の上を飛びながら、洪大な荒れ狂う海に思いを馳せることを止めるのは殆ど不可能です。

小さな禅ガーデンにおいては、苔や灰色の小石に囲まれた石を、海に囲まれている島の森の上に聳える山と見るのは、容易いことです。'

数年前の話で、有名な隻手の声を問う公案の新展開とでもいうべき俳句も引用させて頂きました。

この場合、問題というか、逆説は、ものを数えたり集合名詞を用いたりする現代人の慣習に密接に関係しています。これについては、2009年に話させて頂きました。

しかし、その時話しましたように、アマゾンの川岸の森に住むピラハン族の人々は、二本、十本、あるいは一万本の木を見ません。彼らが見るのは、一本一本の木を見るのであり、そのすぐ傍に他の木があっても、その一本一本は分離した個別であり、あらゆる意味で自ら完結しています。

シンバルが打ち鳴らされる時、両方の一つずつが私たちの聞く音にもたらしている効果は明らかです。

撥で太鼓を叩く時でも、撥が太鼓の皮と同様に振動し、結果として出てくる音としては、撥自体が小さな役割を演じています。

そうだとすると、(二つの手を見るのではなく)一つずつの手を見て、一方の手が他方を叩くときに生ずる音を聞いてみては如何でしょう。実際の所、左右それぞれの手は色んな点で違っており、結果として出てくる音としてはそれぞれが微妙に違う貢献をしているのです。

私たちは、そういうことを知覚するに充分なほど鋭敏でないだけであって、全く抽象的な知性の領域においては、隻手と柏手という矛盾概念を一緒に持ち込む公案が力を持つのです。

私が自然に詠んだその俳句は、公案の逆説的問題に対して、単に更なる逆説を加えることによって、答えています。

覚えておられるかもしれませんが、それはこうです。

一切は逆説
隻手の声を
聞け
うるさい
わい


そんな答えをしたら、疑いなく、うんざりした禅師は、私の肩に痛切な一棒を食らわしてすごすごと去らしめ、意気消沈した私は二、三か月孤独に座禅をしていたことでしょう。

実際に飛び石を据えるという、一見平凡に見える仕事となると、佛教の中心にある根本的な概念を見失わないようにすることが大事です。その最も重要な概念の一つは、有と無の一如という信念です。

私たちはいとも簡単に実際問題に没頭し過ぎて、抽象的な知的概念を心の一部分にしまい込んでしまいます。それは大変な間違いです。

仏教徒にとって、色んな区別をして、彼と此を分離するというのは、さとりへの道で大きな障害の一つです。

どんな風にやろうかという最初の漠然とした構想を初めとして、下されるところの一切の決断は、最後の結果に甚大な影響を及ぼすでしょう。この点では、最も些細なことが大きな着想と同様に大事なのです。デザインにおいて、「悪魔は詳細にあり(詳細な所が最も扱いにくい)」という諺が、飛び石の線の配置においてほど当てはまることはありません。

このことを理解しない、実感しないというのは、大きな間違いです。

この点を理解できれば、それは、いかに奇妙に見えても、依他起(全ては他によって起こっている)というもう一つの基本的佛教概念の、一見ほど遠く見える実際問題への適用に他なりません。

独立した不変の自己というようなものはないのであって、存在する一切のものは、お互いに繫がり合っていて壊れることのない因果関係の連鎖の一要素に他ならないという概念は、仏教思想の中心をなす特徴です。

周りにいる他の人々とは違う不変の「自己」を持っているものとして自分自身を見るのは全く幻想であると考えるのは、充分な理由があってのことであります。そして、私たちのひとりひとりに当てはまることは、飛び石にも当てはまるのです。

転輪多屋の飛び石の場合、一つ一つの石は、起源が共通な隣接する全ての石によって条件付けられ、密接に関係し合っています。

それだけでなく、その一々の石の選択と配置もまた、最善の結果を達成すべきであるならば、単にその隣の石に対してばかりでなく、一連の全ての石の選択と配置に条件付けられ、かつ関係し合っていなければなりません。

よく出来ている絵画などの芸術作品と同様に、全体のデザインは実動する縁起です。

自然に見える飛び石の線を作るためにパドルストーン(櫂状石)を使うという最初の決断の背後にあった考えは、転輪多屋の家屋のテラスから三輪精舎の庭へ行く扉までに、ぼろぼろの見苦しい擦り切れた芝生の路が出来てしまうのを避けるためという理由だけではなかったのです。

それはまた、二つの家の本質的な目的に密接に関連して、隣の三輪精舎に既に存在している飛び石と関連させることによって、その二つの家の分離状態を取り除くのに資するためでもありました。

二組の飛び石が、同じではないけれども、似通ったパドルストーンで出来ているということには、これら二つの家の間にある機能的な連携を直接視覚に訴える形で示すという働きがあります。

必要な石の数は、勿論、石を据える空間全体によって決まってきますし、同様に重要なこととしてその形状の詳細によっても決まってきます。そして、必ず、実際に必要となるよりも少し多くの石がなければなりません。なぜなら、全ての石が一緒に持ち込まれた時、いくつかは適合しないものが出てくる可能性があるからです。デザインの過程の始めから終わりまで、出来るだけ多くの融通性を維持することが大事です。

転輪多屋の場合、出発点であるテラスの一番前の線は、全ての飛び石が向っていく扉をその一部としているフェンスに対して直角になっています。

ですから、必要なのは、出発点と扉の間の直線距離を測ることではなく、石の並び方全体に動きを与える、変化のある曲線を作り出すことです。

デザイン全体の成否はその曲線の質にかかっています。もしそれが悪ければ、その後どれほど細かいところに注意しても、決して状況を復旧することは出来ないでしょう。

他方、もし様々な側面のどこかで細部に間違いがあったりしたら、それもまた大失敗を引き起こすことになるでしょう。

石の選択ということになってくると、一つ一つの石は、それぞれをいかに石組みの中の一要素として組み入れるかという問題を考える前に、一々の石それ自体が特別の質を持ったものとして配慮され尊重されねばなりません。なぜならば、人間であれ、動物であれ、石であれ、小さなグループや中位のグループの質は、構成メンバー個々の質に依っているからです。

飛び石の配置は、しかしながら、純粋に美学の問題というわけではありません。

建設目的や使い勝手ということが企画の根底にあって、石の大きさと形は、周りの空間だけでなく、歩幅や滑り加減、人間の足の大きさの違いなどにも関連していなければなりません。

このような制限内において、単調さを避けて全体にいのちと多様性をもたらすためには、かなりの変化がなければなりません。

小川や河を渡る自然な飛び石には、決して規則性はありません。

しかしながら、一般的に言えば、場違いに見え全体の調和を乱すほど小さな石は決して使えませんし、普通の場合、比較的大きな石を使うのは、一連の石組みの最初と最後のところだけ、または三輪精舎自体のように二つの線の合流点で使うことも、妥当なこととされます。

同様にして、一つの石と次の石との距離には適切なばらつきがあるべきです。

どの石も決して動きはしないのですが、石の大きさと石の間隔を変えることによって、一連の山並みや禅ガーデンの石のように、一方から他方へと流れているような感覚を作り出すことは可能であります。そして、この点においてこそ、公案を心がけていることが役立ち始めるのです。

この流れの速さと方向の二つともが制御されねばなりません。転輪多屋の場合、決定的要素となったのは、その三輪精舎との関係のあり方でした。

転輪多屋は付属の建物であり、この二つの家の関心の全焦点は三輪精舎のお仏壇にあるのですから、流れが主として転輪多屋のテラスから三輪精舎への扉に向うべきだというのは、自然なことだと思えました。

ですから、テラスの方に置いた石は、比較的大きくて広い間隔で置かれ、ほとんどが一本線上に並んでおり、そのレイアウトの背後にある考えは、ゆるやかな動きの静かな水の中で、渦を巻きながら物憂げに浮遊しているように見せるという点にあります。

次に、扉に向かっての曲線が始まる所で、流れは速まります。

曲がり角を勢いよく廻る流れのところでは、比較的小さな石が寄せ集められており、その状態は、扉に達する前に、広い間隔を取った大きな石の配置で、再びその流れが緩やかになるところまで続きます。

これはまた、反対側から扉を通り抜けて、速い流れを表現する曲線の向こう側に続いている大きな飛び石を見る時に見て取れる、さほど目立たないけれども、同様な(三輪精舎から転輪多屋への)逆流を設定する効果もあります。

実用性という点からすれば、両端にあるより広い間隔のより大きな石は、足の置き方を指示してそれぞれの方向へ動き始めるのですが、曲線を回って流れるもっと詰めて置かれた石の所に達すると、歩いている人は、それぞれが自然に歩ける石を自由に選んで歩くことが出来るようになります。

曲線の辺りでより密に置かれた石の数や重さの増加もまた、石組み全体の中で特にその部分を強調します。

石の非常に薄い乳褐色は、明確で真っ直ぐな、たまに僅かな隆起のある、石目によって様々な変化を見せます。正しくその流れと共に動いている時や、流れに対して角度が浅い時、石目はその流れを速めるし、流れに対して直角になれば、流れを遅くするからです。

前に申上げました通り、一つ一つの石が、石組み全体の中で、全ての石に影響しますから、デザインの詳細な過程が開始遂行され得るのは、全ての石が寄せ集められてからのことです。と申しますのは、どんなものが出来上がってくるかは、全て手許にある実際の資材に依るからです。

この段階で心掛けねばならないもうひとつの主要な佛教概念は、無常ということ、何ごとも不変でないということ、存在するもの全てが絶えざる変化を受けているということです。

パドルストーンはすべて、程度の違いこそあれ、風化してしまっています。それらは昔のままではなく、これからも転輪多屋の庭においては無数の足に踏まれて目に見えない風化を続けることでしょう。

しかし、変化と無常は、単に摩滅と腐敗と死や物理的変形のことだけではありません。

去年「佛教と言語について」という話で触れたように、もっと微妙な形でも明らかに表れています。

一つの言葉は、その綴りが変わっても、同じ意味を保つかもしれないし、あるいは、その綴りは同じでも、意味するところは完全に変わっている可能性が在ります。

一本のキッチンナイフは、誰かを殺すために使われて、凶器となるまでは、単にキッチンナイフです。

一個のパドルストーンは、それ自体の特別な地質学的歴史を持ってはいますが、運び去られて一連の飛び石の一つに使われ特別な機能を与えられるまでは、単に一個のパドルストーンです。

さらに、そのパドルストーンを隣接する石の間のどの部分に置くかによって、その石の大きさや形体についての私たちの認識そのものが変わることになります。

太陽の運行によって、日々の暁から黄昏への時の移行、さらには星明り月明かりへの移行によって、また光と影の交替によって、連続的に生起する色彩の変化。加えて、この特別なケースとしては、雨が降るや否や起こる、黄金褐色への劇的な変化は言わずもがな、私たちの目に映る色には本来固定的なものはないのです。

どんな画家も知っているように、あるいは必ず知っておかねばならないように、幾つかの色の斑点が並列されると、そのグループ内での色の配列によって、私たちの目には色合いが違って見えますし、まったく違った色合いに見えることもしばしばあります。

以前の話で触れたことだと思うのですが、放出される光子からすれば実際には白である領域を、周りの色との関係によって、例えば赤とか青とかのような、全く違う色を帯びて見えるようにすることが出来るのです。

比較的地味な色の飛び石は、実際に接触しているのは、一、二の場合だけで、完全に囲まれていることは全くありませんので、外観上に類似した極めて微妙な変化が起こるのは、濃淡においてだけです。

もし、二個の薄暗い色の石をお互いに隣り合わせに置くと、もしくは二個の比較的明るい色の石をお互いに隣り合わせておくと、その見た目の色調の相互強化作用が起こりえますが、もし暗い方の石の一つと明るい方の石の一つを並列すると、明るい方はより明るく、暗い方はより暗くなります。

その全ての石の見た目の色調と色彩は、それらの石が芝生の緑に対して置かれていることによっても、そしてそれぞれの石が、芝生の生み出すかなり濃い背景と別な関係を作り出すことによっても、影響を受けます。

石の外形のような明らかに固定した特徴でさえも、もし互いに遠くに離されたり近くに寄せられたりすれば、必然的にその輪郭の特別な様相が強調されることになって、主観的には変化するように見えます。

さらには、一々の石の見た目の大きさは、それが隣接する大小の石と、どれほど近いか、どれほど離れているかに、影響されます。

飛び石は、本当に、現在は私たちの世界がそこに存在している、常に変わりつつあるなる宇宙の一部です。

石と石の間の空間の形は、勿論、もっと大きな根本的な影響を受けるでしょうし、一連の小さな空間の変化は、その中の幾つかはそれ自体ほとんど無意味に見えるかもしれませんが、石組み全体の外観に大きな影響を持つでしょう。

ほとんどの人が(石などの)固形物に集中してそれに専念しがちであり、適切な石の探索と収集に長い時間をかけ、それらを現場で運んだりする経験が、この傾向に拍車をかけさえします。

しかし、飛び石の世界では、禅ガーデンというもっと明らかに仏教的である背景においてもそうですが、空間が最も重要な要素であり、存在するもの一切の一如という最優先の原理を決して忘れてはなりません。

石そのものは、空間の中の空間です。

存在するものと存在しないもの、その両方ともが果すべき役割を持ち、石と石の間の間隔は、その間隔が隔てている固体と同じだけの、時にはそれ以上の重要性を持っています。

しかしながら、完成後に庭を歩く人々の多くは、いわずもがな、創造過程で起こったことについてはほとんど意識しないでしょうし、もし彼らの目の前に、あるいはその足下にあるものに気付くとしても、単にそれが好きか嫌いかだけでしょう。

にもかかわらず、適正さとか調和とかの感覚が湧き起こって来るのは、甚深微妙なデザインへの敬いの心からです。

石の置かれる順序という一見抽象的に思えることがらになってくると、絶対的に正しい組み合わせというようなものはないのです。

人は永続的な無知の状態で躓き躓き歩いているのですから、自分のすること、あるいはしようとしたことに関して謙虚であるというのは、至極もっともなことであります。そして、抽象的で数学的な順序の問題となってくると、無知というものは本当に深刻になります。

お互いの関係においてどの位置にでも入れられる、僅か十二行の置換詩においてでさえも、二十億六十三万八千八十個の組み合わせがあり、二十二個の飛び石を並べるということになりますと、その可能性は実際上無限であります。

人に出来ることは、ただ、どれほど弱々しくとも、適正だと見え適正だと感じられる組み合わせの形、つまり、あるがままにあって変える必要がないような形、に到達しようと試みることだけです。

これによって結論されるのは、禅ガーデンの石の配置や、飛び石の自然な組み方、乃至パターンが、飛び石の場合には実用的な主要目的があるのですが、両方ともが最初に思っていていた以上に公案と共通点があるということです。

いずれの場合も、通過したかも知れないし、通過しなかったかもしれない、修行がどんなに激しかったとしても、単に論理や知性に頼ってばかりでは、そこに含まれている視覚問題の如きを解くことはできません。

知性や前もっての修行は、感情ないし直感の、直感というのはもし健全な基礎があればのことですが、内的世界に組み込まれてしまわねばなりません。

感情と本能、または直感、これらは、実際のデザインが造られる時に重要になります。

もっと現実的な類比を用いるならば、本当に上手に試合をするのに似ています。

コートや球場に出て、最初のボールに立ち向かう時にまだ、特別な打法や動きのために、どこに足を置くべきかを考えているようでは、決してよいプレーはできないでしょう。

飛び石の選択と配置の問題では、たとえ最低限でも成功のチャンスがあるのは、個々の石を据える時の全ての決断が適正だと「感じられ」、その結果が、数多くの調整の後、同様な「感じ」を持ち得る場合だけです。

全てがかかっているのは、一つ一つの行動に際して、単に私たちの存在の小さな意識的部分だけでなく、無意識的存在の洪大な蔵の全てを含めて、人生経験の全てを計らいなく持ち出して使う能力の如何であります。

私自身を含めて、私たちの殆どにとって、不可能ではないとしても、これを実行するのは極めて困難です。しかしながら、本物の禅師が弟子に公案を与える時、その弟子に成し遂げさせようとしているのは、これです。

そこには、いま一度「存在するもの一切の一如」という根本的原則が働くことになります。

私たちの意識と無意識は一如であるべきで、理想を言えば、私たちの存在の全体が、人生でなす全ての決断に含まれていなければなりません。

いずれにしろ、私たちの目指すべきものを知ることが、少なくとも物事の始まりです。

私が話しているこの一如の中においてこそ、現実的なものと象徴的なものが、物質的なものと精神的なものが、常に形の変っている数多の中で融合しています。

特に仏教徒にとってこれは非常に明瞭です。

ですから、おそらくは、真宗信者と三輪精舎僧伽のメンバーだけではなく、その上を歩くだろう全ての仏教徒にとっても、転輪多屋の芝生を横切って、三輪精舎、お仏壇へと導く飛び石の線は、その全ての人たちが歩んでいるお浄土への道を象徴しているといえるでしょう。

今やこのやや風変わりな話を終えるに当って、飛び石の仕事の全てが完成してから二、三日して出来てきた詩を朗読したいと思います。

こんな詩です。

こころの世界

灰色の小石の海

不動の波

遥か下の
苔の森の上に
聳える
山の巌

動かない石で
出来ている

飛び石の
流れは

芝生の
緑の水を
よぎって
行く

庭の扉
に向って

ここは
注意して
歩んで下さい

水は
非常に深いです

しかし
いずれにしても

この上なく深いのは

無我の
我という

我が人生の
公案

Talks at Shogyoji

by John White

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