阿弥陀佛と超越と他者性

この講話は、私が考える基本的な仏教の五大原則、すなわち、「有と無の一如」「空」「縁起」「幻想」「無常」に沿って話しています。


今日の話の大筋は、偉大な経典類を読むとき必ず留意しておかねばならないと思える「三つのレベルの論述」と同じで、その三つの論述レベルはしばしば互いに織り重なっています。これについてはとりわけ、「仏教と逆説と実在」と題する2018年の正行寺講話で話したことがあります。

かりに「三つのレベルの論述」という考え方を心得ていない場合は、専門的研究者でない人々やときには専門家にとっても、佛教理解のために肝心な文献がいとも簡単に、紛らわしい言葉の藪になり得るのです。

その当時、私は村上専精教授(1851-1929)が案出し、井筒俊彦教授(1914-1993) が再考した図(真如の図)の存在を知りませんでした。しかし、2018年に私が行った講話はかなり異なったかたちの説明ではあったものの、多くの点でその図と一致しており、対立するところはまったくなかったのです。

そのときに私が話した、二つではない「三つのレベルの論述」というのは、次のようなものです。

第一の高いレベルは、「創造されていないもの(無為)」のレベルです。

それは不可思議にして不可説なもののレベルであり、当然のことながら、いかなる類の概念的思考も理念も範疇も超えており、言葉には収められません。

それは、宇宙の永遠の法則、「法」のレベルであり、佛陀の真実の体である法身のレベルであり、究極的実在と同体です。

それは、「すべての有と無の一如」のレベルでもあり、いかなる区別もそこにはありません。


第二の低いレベルは、「創造されたもの(有為)」のレベルです。

これは、有情のレベルであり、言葉のレベルです。思想や観念を伝達することができるのはこのレベルにおいてです。

それは、組織化や論理のレベルであり、区別することに基づいています。

それは、使用する言葉の意味の定義と、定義された言葉の創り出す範疇の首尾一貫した使用に依拠しています。

それは、経典が不可説な第一の高いレベルへと道を開こうとするレベルでもありますが、そうした第一の高いレベルの存在はしばしば、特別な範疇や区別を用心深く並列することによって暗示されています。


第三のレベルは、「神秘と逆説」のレベルです。

これは、最初の二つのレベルの限界を避けるために、言葉を用いようと努力するレベルです。

それは、日常的論理を超えており、「公案」とか、矛盾した言葉とか、逆説的表現などを用います。

この第三のレベルでの言説そのものは、効果的に説明できるものではなく、ありのままに受け取り、ありのままにしておくほかありません。

言葉では容易に表現できない、感情や直感の領域なのです。

にもかかわらず、逆説や矛盾した言葉を使用し、それを次から次に積み重ねることで、第一の高いレベルの存在を暗示するように使うことができます。


村上・井筒らが考案した図(真如の図)に話を戻すと、空白の上部(A領域)に名前が与えられないということは、まったく明瞭です。なぜなら、名付けるということは、まったく区別のない領域に区別を持ち込むことになるだろうからです。

私が「第一の高いレベルの論述」と言及しているものについても、同じことが言えます。

これによって私たちは直ちに、経典の作者たちが先行する数世紀間、ただ単に口から口へ人から人へと口頭伝達してきた大事な内容を初めて記述しようとして直面した問題そのものに、真正面から対面させられることになります。

何百年何千年もの記録に残る歴史の間中、哲学者たちも、(近代科学出現以前の)前科学者たちも、近代の科学者たちも一様に、自分の住んでいる世界をより深く理解しようと努力しましたし、その理解を表現し伝達する新しい言葉を考案してきました。

不幸なことに、その結果は、増大し続ける複雑性の創造であり、その複雑性は過去半世紀ほどの間に指数関数的な速度で増大しているのですが、その過程の始まりは数百万年前の前史にまで遡れるようです。

最も重要な共通語の多くには、時の経過とともに、年代あるいは地域により、異なった沢山の意味ができてしまっており、それがまた使用される特殊な目的次第で変わるのです。

ですから、いかなる真剣な議論においても重要なのは、さまざまな意味に受け取られがちなキーワードがどういった意味で使われているかを断っておくことです。そういった場合は普通、そういうさまざまな可能性がある言葉の意味はOxford English Dictionary (オックスフォード英語辞典)の帰入条項の最初の方に記載されているものです。

記録されている歴史の始まりから今日に至るまで、あらゆるたぐいの歴史家たちは、容易に確認され得るような、一直線上を次から次に流れゆく事実について、そういう事実の連鎖を作るように強要されてきました。

ごく最近まで、アフリカの特別な原人の一種が、人間というものの特徴を発達させてきたという説が、ほとんど全ての人に受け入れられていたのです。しかし今では、世界中の広範囲な場所で異なった種の多くの原人が、その特殊な進化の過程に関係していたことが明確になってきています。

仏教徒にとっては、千五百年前かあるいは二千年前の、まだ科学を知らなかった彼らの先達が「すべての有機的生命は縁起の結果である」という明確な認識を持っていたということは、驚くに足らないことでありましょう。

相当に長い人生のかなりの部分を、専門的な歴史家として過ごしてきた者として、毎年毎日毎時毎分に起こる億々の相互関連事に直面するとき、歴史という言葉というか概念は、私にとって、特別に面白いものに思えてきます。そして、『華厳経』に帰らざるを得ません。『華厳経』「十行品」中の「第六行」に「さとりの衆生(菩薩)はこの思いをなす」として、次の一節があります。

「・・・すべての世界に存在するのはただ言語的表現(言説)だけであり、言語的表現は事実(諸法)に根拠を持たないし、事実は言語的表現に根拠を持たない。」

トーマス・クレアリ英訳『華厳経』462頁

以前幾度も申し上げたように、四分の三頁ほどの簡潔な『般若心経』は言わずもがな、『涅槃経』や『華厳経』やその他の大経典の中心には、本当に逆説的言説が並んでいます。

『般若心経』の中心の主題は、所説を六度も反復するくだりで、積極的に叩きこまれています。

「色は空であり、その空は色である。空は色に異ならず、色は空に異ならない。空なるもの、それは色であり、色なるもの、それは空である」と。

続いてすぐに、釈迦牟尼の偉大な弟子である舎利弗の理解をさらに助けるために、この言説の意味するところが大変詳細に説かれています。

「それ故、舎利弗よ、空には色はない、受も想も行も識もない。眼も、耳も、鼻も、舌も、身も、意もない。色も、声も、香も、味も、触も、法もない。眼界はないし、同様に続いて、識界に至るまで、そのような境界はない。無明もなければ、無明の滅もないし、同様に続いて、最後には、老死もなければ、老死の滅もない。苦も、集も、滅も、道もない。さとりということはないし、得ることもなければ、得る対象もない。」

こういう状況は主に、経典作者たちにとっては、「第一の高い論述レベル」が必然的に、ほとんど否定的言説に関わるものである不運な事実から生じています。そして、ものごとをそれが何でないかという形で叙述したり定義したりするのは、決して容易ではありません。

究極的実在と同一である、佛の法身というか、その真身は、不可思議・不可説であると言われ、言葉では捉え得ないのです。

しかし、言葉を使おうとするときにはいつも、「第二の低い論述レベル」すなわち村上・井筒らによる真如の図の下半分(B領域)に留まらざるを得ない人間である私たちは、もともとが好奇心旺盛にして反駁的な動物であることもあり、もし何かが不可能だといわれれば直ちにそれをしようとしますし、日常生活ではかなり頻繁に成功します。

このレベルでは、何かが不可説であると言われると私たちはすぐさまそれについて語ろうとしますが、そのときに出てくる類の問題は、簡単に提示できます。

もし、あらゆる有と無の一如について聞いて、常住なる法身佛すなわちその真身は不可分であると言われれば、人は直ちに、「他力」というのは佛によって用いられるか佛からはたらき出る何かではなく、それ自体が佛であると理解します。しかし、そういう理解は論理的に馬鹿げたもので、私たちの自力も佛であるというさらに無意味な結論を導き出すことになります。

これが確かに言いたかったことであり、不可説なものを説こうとするや否や生じる類の出来事の一例です。

煉瓦の壁に衝突するというか、非常に深い穴に落ち込んでしまうというか――使いたければどんな譬喩でもいいのですが、ただそのような困難に出くわすだけです。

この文脈で、親鸞聖人と同時代の偉大な中世のローマンカソリックの神学者、聖トーマス・アキナス(1225-1274)が、ラテン語原文ではSumma Theologiaeという名の『神学大全』を書いたとき、そこには他のさまざまなことと共に神の存在に関する五つの詳細な証明が含まれていたということに注意を向けてみるのは面白いでしょう。神の存在証明における彼の論理と、公明正大に提示された反対意見への彼の論駁は、いったん最初の前提を受け入れさえするなら、両方ともに完璧です。

それにもかかわらず、その最初の前提というのが、三位一体神の神秘のようなカソリック信仰の中心にある神秘への関わりがあり得たので、彼は最後に「それでも信仰は必要だ」と宣言しました。

他方、親鸞聖人は、暗黙の内に神秘がすべての宗教の中心にあることを同じく認めつつも、独自の方法で対極に進み、論理とあらゆる種の人間的努力――すなわち自力――と共に、自らの学問も含めたすべての学問を差し控えつつ、唯一の直接的にして有効な浄土往生の手立てとして、佛の限りない慈悲への絶対的信仰を強調しました。

そうすることによって親鸞は、自らの命を危険に曝したばかりでなく、自分自身と信者たちを当時先行していた僧院的佛教から切り離しました。その当時の佛教というのは、涅槃――すなわち無――が達成される前に、つまり、さもなければ果てしない苦の輪廻が終結する前に、無数の転生と不断の自己鍛錬が必要だという信念に基づいたものでした。

親鸞がその消息の一つに書き留めているように、釈迦牟尼佛陀の後継者である弥勒菩薩が無上覚に達して佛になるのは実に五十六億七千万年後のことです。

不可説な「第一の論述レベル」の、つまり究極的実在の、解決できそうにない問題に直面して、経典作者たちはしばしば逆説に訴えて用いたばかりでなく、基本的に言葉の領域を超えた言語道断の存在を知らせる方法として「公案」のような言葉の矛盾に訴え用いました。

『涅槃経』第一巻第三部の第二(金剛身)品は、「如来の身は常住身であり、不可壞身であり、金剛身である」と述べるところから始まり、その後如来の主要な特徴に関して一連の長い自己矛盾的言説を展開します。

それは、

「如来身は身体であり身体でない」
「それは存在せず存在する」
「それは存在でもなければ非存在でもない」
「それは定でもなければ不定でもない」
「彼は性を持たず性に住する」


などと述べてただちに混乱をきたし、やがてかなり早い段階で

「それは不可思議であり、常に不可思議であろう」

と述べて、私が「第一の高い論述レベル」と名付けたものの方向に転じます。

しかしながら、2018年の講話で仄めかしたように、二つが遂に絶対的に明らかになるのは、人が『華厳経』に向かい、トーマス・クレアリの記念碑的な1518頁の翻訳の最後の部門、「実在領域への入(入法界品)」と題する三十九品まできて、やっと1153頁の第二偈、

「佛は有限でもなければ無限でもない。
大聖は有限と無限を超えている」

という詩句に出会うときです。

第一に、『涅槃経』で起きるような驚くべき逆説の一覧表は、実に「第二レベル」の言葉や概念がどれもすべて無意味であることを示すためのものであり、それを超えて不可説な「第一の高い論述レベル」が存在することを知らしめるためだったのです。

第二に、あの「第一の高い論述レベル」に本来的と見える否定性の問題は、あの驚嘆すべき経典の、あの一つの対句の中の一語によって遂に解決されるのであって、この一大跳躍によってまったく肯定的な世界に脱出するのです。

その変化をもたらす語というのは、『華厳経』に頻繁に出てきます。

それは、「超える」という言葉です。この特別なケースでは、正確には「超えている」ですが、それは、「(活動範囲や概念領域の)限界を超えていること、ないし超えること」と定義され、名詞の「超越」という言葉もあって、「通常の有形なレベルを超えた存在もしくは経験」を意味します。動詞と名詞の両方ともが「第一の高い論述レベル」の方向を指し示し、完全に肯定的で、いかなる種の否定的意味も持ちません。

動詞と名詞の両方ともが、『華厳経』の全体的音色と自然に調和しており、村上・井筒らの真如の図の上部(Aの領域)の文脈においても完全に和んでいます。

そのうえに「超越」という語を使うことで、「否定」というような本来拒絶的な意味合いの言葉を使わなくてよくなります。

私たちが衆生として「使っている」と思っている言葉が、それどころか、私たちの「主人となって」、さらなる言葉を産み出すために「私たちを使う」のだということを完全に理解したのは、2018年の講話を書いた後のことでした。

お互いに意見を交換し、住んでいる世界を理解し、統制するための助けとなるように言葉を創造し、使用するのだということは、ほとんど言う必要はありません。しかし、どんな言葉を話しているにせよ、私たちに伝えられた語彙が、今度は入れ替わって、私たちに考えうる思想の範囲や質をどれほど規定しているかに気付くことは、相当なショックとなり得ます。

事実、私たちが自分の住む世界であると理解しているのは、意外なことに、むかし私たちが考案して自らを助けるために思いのままに使ってきた言葉や記号によって創造されたフィクション(作り話)なのです。

全く、原因と結果の関係は時折、直線的であるというよりも、循環的・往還的であるように見えます。

進化が私たちに賦与した能力や私たちの使う言語は、たとえ次第に増え続ける電子工学的な救援があるとしても、量りしれない全体の小さな一部分というか選択に過ぎません。これを理解しようとするには、私たち人間という動物や彼らが住む世界を眺めさえすれば、それで充分です。

「第一の高い論述レベル」すなわち、創造されていないもの(無為)のレベルのあからさまな否定性と隠れた否定は今日でさえもまだ生き続けており、私たちはその不可避な意味合いとそれに関連した含蓄という彗星の尾を忘れています。

そのような連鎖は、私たちの意識に住する必要も、現れる必要もありません。

私たちは、私たちを取り巻く途方もない人種差別を見て、その陰険で危険極まりない存在、時には爆発的でさえもあるその存在が、どれほど頻繁に私たちの下意識に隠れているか視るだけでいいのです。

たとえば英語では、否定の基本的意味は、「何かとの矛盾ないしその拒否」です。

加えて、矛盾というのは単に言い争いを想い出させるだけではなく、ただ言い争いを暗示するだけでもありません。なぜなら、言い争いというのはすでに、矛盾という言葉が持つ主要な意味の要素なのですから。

拒否というのは同様に、口論抗争に深く関係しています。それ故に、これら二つの主な意味は、それ自体極めて頻繁に、軽蔑的な意味で使われます。

矛盾と拒否は両方が、論争や抗争との関係を抱えているので、「気候変化の拒否」といった場合のように、それらは、否定的なこととして、肯定的でないこととして見られます。それゆえに、善くないこと、悪いことなどということになるのです。

それ故私には、そのような言葉は、現在の文脈においては、避けるのが最善であり、この特殊なケースでは、超越に置き換えられるべきだと思われます。

十五歳ごろに初めて学んで以来、「オッカムの剃刀」として知られるようになったものをいつも使っています。

オッカムのウィリアム(1300-1349)は、ある規則というか公理を見つけたイギリスの哲学者です。その公理は解りやすい中世ラテン語で書かれており、何か問題に直面したら、複雑な解決を選ぼうとする前に、簡単な解決はないかを先ず充分に確かめるべきだという趣旨のことを述べています。

私のような愚かな人間が、経典英訳への取り組みに内在する問題に直面するとき、オッカムの剃刀が驚くほど有効なことが解ってきます。古典的文献の翻訳においては、それを時代錯誤的に現代的概念や用語法と結び付けないことがどれほど大事であるかということを、いつも思い出しながら取り組んでいます。

いとも簡単に起り得る一例を挙げるなら、私は先般、浄土を中心にした非常に深遠にして啓発的な論文の中で、「サンスクリットでa-mitābha/a-mitāyus Buddhaという阿弥陀佛という佛の名ですが、aは“でない(not)”、mitaは〝測られた〟であり、ābhaは〝光〟、āyusは〝いのち〟を意味します。つまり、この佛の名は、身分自身の本質を構成する光といのちは測り得ないし実体化し得ないことを意味しています」という文章を読みました。

阿弥陀という名が実際に何を意味しているかについてのこの素晴らしい翻訳と解明は、私にとって、私ばかりではなかったでしょうが、実に眼を見張らせる啓蒙的なものでした。しかしすぐに続く文章の提案の最後に出ている、「実体化」という完全に現代的な用語とのかなり緊密な連携が、私にとっては、「いのち」を佛のいのちそのものを意味するものとして受け取る傾きがあるように思えて、少し不安になりました。

この見方はその後私がミュラーの『小経』翻訳の第八章に「なぜ如来は無量寿(アミターユス)と呼ばれるか。舎利弗よ、如来の命の長さが無量(アミター)なのだ」とあるのを見たとき強められました。ゴメスの翻訳においては、第十五章に「なぜ如来は無量寿(アミターユス)、<無量な寿命>と呼ばれるのか」とあるのです。

オッカムの剃刀を光の問題に適用して、最も簡明な解釈を取るならば、その文章はとても解りやすいのです。なぜなら、その文章が書かれた当時でさえも、「光」は、非常に正確なものではないものの、その相対的な明るさや暗さによって測定評価されていたのですから。

このような文脈において、「いのち」についての至極簡単にしてしかも間違いなく最も一般的な解釈は、おそらくは実用的でないものの前と同じ簡明な「測量」的方法を取るとすれば、佛のいのちそのものへの言及ではなしに、佛のいのちの長さへの言及、寿命のことを言っているのです。これは、諸々の経典で際限なく議論されている話題で、単に阿弥陀仏だけでなく諸佛一般に適用されるものです。幾つかのケースでは、数百万年とか数十億年とかの期間が考えられているにもかかわらず、そこには非常に明確な数字が与えられていますが、別のケースでは単に無量(量れない)とだけ言われています。

もしこの特別なオッカムの剃刀の適用が、単に切るというよりも切断のように見えるとすれば、諸経典において阿弥陀がしばしば「無量光佛」とか「無碍光佛」として語られており、上に示唆した寿命よりも広い意味での寿命は言うまでもなく、「いのち」ということにまったく触れていないというのは、注目に値します。

曇鸞(476-572)の例を挙げましょう。彼の『世親の浄土論への註』(稲垣久雄訳)第二章の冒頭部分、つまり世親の原本『浄土論』第一偈の直訳部分において、世親は、佛のほかの称号には触れることなく、ただ「尽十方無碍光如来」と呼んでいます。

これに関連して、世親が中国人ではないこと、深く関わっていた初期小乗仏教に満足できず、大乗仏教に転じたインドの佛教哲学者であったことを思い出すことは大事です。

もっと重要なことには、曇鸞の『論註』の同じ第二章の第二念門において、無量光が特に「佛の寿命とその浄土に生まれた者たちの寿命は無量無辺である]と述べている『小経』への言及と結び付けられています。

サンスクリットで書かれた阿弥陀仏の名の「いのち」の意味に関するこの解釈がもし受け入れられるならば、「(何かに)実体ないし実在を与える」ということを意味する「実体化」という現代的学術用語と関係付ける必要は、直ちに取り除かれます。この実体化という言葉は、これとは別の、まったく適切な文脈では、そういう意味合いで使われているものです。

人がたった今自分の言ったことが何であったかを充分に理解できていない――そんなことが容易に起こることであるということは、実例をもって示すことができます。少なくとも私の場合は、2018年の講話(『仏教と逆説と実在』)のときのことでした。そのとき私は、佛の金剛身とその超越性について一連の逆説を並べ立てた後、ついでに「実在と言うとき、私は、究極的実在のことを指しており、それは本当にまったくの他者です」とだけ述べていました

「他」というのは、形容詞とか名詞として使える言葉で、「既に語られたり知られたりしているものとは違っていてまったく異なるもの」と定義できます。

その上、「他者性」という言葉の基本的な定義は、ただ単に「異なっているという特質ないし事実」であり、そこには否定的な意味合いも肯定的な意味合いもなく、いかなる特別なことがらの範疇とも関係ありません。

そこにはまた、それが実際に何であるかについてのいかなる暗示もありません。

諸経典の見事な言葉の翻訳において、佛陀は何でないかという形で佛陀の特性を叙述することに専念している全ての文書が、およそ二千五百年後には、実際的な目的によって、あの「他者性」という一語に煮詰められ得るのです。

この言葉は、その用語法に関する限り、同時にまったく非特異的である点において極めて解りやすく、「第一の高い論述レベル」に属する、不可思議・不可得・不可説なる究極的実在の文脈においては、完全に適切であります。

「他者性」という言葉はただ、あなたの心に飛び込んでくるものが何であろうと、どんな種類のあるいはどんな特質のものであろうと「佛はそれとは違います」と告げます。なぜなら、佛はあなたの考え得るいかなるものとも違うからです。

それ故、「他者性」という言葉は、私たち衆生が「第二の論述レベル」つまり思想と理念と言葉の領域にはいるときに、佛について使われるべきだということを提案したいと思います。

背景に二千年の歴史を持つものは何でも、通常は非常に変わりにくいものですが、幸いにもその点に関して、広く普及している佛教文献の英訳は、歴史的に見て比較的新しいものであり、しばしばあまり信頼できないところがあります。

その上、特に真宗文献の英訳においては、「他者性」という用語の定義要素である「他」という言葉は、すでに充分親しいものとなっています。

『親鸞著作集』(The Collected Works of Shinran)において、それははっきり「他力」という言葉として凡そ七十回も出ています。「他力」は、阿弥陀仏からでるはたらきであり、浅ましい自力の行為とは全く対照的に、それによって阿弥陀仏の本願への絶対的信が達成され、阿弥陀仏の浄土への往生がたちまちに定まる唯一の増上縁です。

他方、「自力」というのは、衆生が行い得るか、あるいは行い得た、想像できる限りのすべての行業という意味を含み、宗教的行事や儀式から、善行や自己犠牲や極端な苦行に至るまで、それが何であろうとも、他力のはたらきの欠如のために、彼らの浄土往生の確信は言わずもがな、その浄土往生そのものの助けとならないだろうすべての方法を意味します。

「他力」という言葉の明白な出現に加えて、隠れた形でとめどなく繰り返されるこの対比は、先ず曇鸞の『論註』の最後のところにかなり突如として現れ、親鸞が教えたり語ったり書いたりしたものすべてにおける情熱的な中心テーマとなっています。

他力と自力の違いは、男女、大小、強弱、液体固体、善悪、難易といった簡単な対比ではありませんし、人がしたくなる同様な比較のいかなるものにも当たりません。

しかしながら、その理由は実に簡単です。

上記した対比の組はすべて、「第二の低い論述レベル」つまり衆生とその行動のレベルを指し示しており、このレベルにおいては言うまでもなく、釈迦牟尼佛が何よりも忌み嫌ったこととして記録されている「区別する行為」にほとんどすべてが基づいています。

他方、「他力」は本質的に「第一の高い論述レベル」、すべての有と無の一如のレベル、不可思議なもの、不可説なもののレベルのことであり、それを指し示しています――言葉で表現する概念としては、その一部ではありえないのですが。

人間にはたらく実際のメカニズムとして、他力の力というのが何であるか、永遠に偏在し得るものが何であるかは、おそらく説明できません。

「他」は、まったく他の何者にも似ていません。

この特殊な文脈における「他」の意味は、まさしく私がお話ししてきた「他」ということであり、そしてまた、このようなことが議論される場合は常に、佛陀の主要な特徴として「他者性」ということを取り上げるべきだと私には思われるのですが、その「他者性」のことでもあります。

そのような用語法は、必ずしも常に充分確認されているわけではありませんが、すでに真宗信仰の中心的要素であり、私が示そうと努めたように、かなり多くの利点を有しています。

ですから、それは、超越ということと共に、少なくとも真剣に考慮すべきです。

しかし、私は、この最後の講話を、いつものように詩で終わりたいと思います。この詩は、初期佛教と現代科学の変わり続ける関係にもう一度触れるために、大分前の講話でしたように、今は私にとって親しくなっている龍樹の世界から出ていきます。

それはこうです。

もし時間というものが
本当に

科学的に
見て

人間の
考えに
過ぎないのであれば

フィクションならば

すべての
存在には

今もなく
前もなく
後もない

しかしながら
あり得ないのだ

時間の前の
時間も

時間の後の
時間も

なぜなら
その両方とも

それ自体が
時間なのだから

そうなれば
ただ残るのは

他者性

Talks at Shogyoji

by John White

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