1993
最初の正行寺講演
1994
第九回ロンドン会座講話
1995
禅ガーデンの創造
1997
正行寺の未来について
1997
三輪精舎石庭
1998
教育について
1999
初期仏教と現代科学
2000
出会いの三輪精舎
2001
現実の出会いについて
2002
無執着について
2003
空について
2004
禅と庭園の創造
2005
逆説について
2006
阿弥陀仏の 第十八の本願から 生ずるもろもろの反省
2008
現代科学と根本的仏教思想
2009
正行寺と佛教と言語
2010
飛石と公案
2011
佛教とバガヴァド ギーター
2012
正行寺の将来について
2013
浄土真宗とプロテスタントにおける信仰による義認
2014
禅ガーデン
2015
すべての有と無の一如
2016
迷想について
2017
一如と逆説と芸術
2018
仏教と逆説と実在
2019
芭蕉について
2020
仏教と俳句
2021
阿弥陀佛と超越と他者性
浄土真宗とプロテスタントにおける信仰による義認
信仰というのは、これまでも存在して来たし今も世界中に存在するありとあらゆる無数な宗教に共通な一事だと私は思います。
信仰は、定義上、知性に依存するものではありません。
それは論理の領域外にあります。
信仰というものの至要性と普遍性は、信仰というものが存在するところではどこでも、何らかの種の神、もしくは神々、とそれに従侍する霊的存在の群れを信ずる心がその信仰に付属してように、何らかの形の後世を信ずる心もまた全くその信仰に付属しているという事実から来ています。
まだ世界中に十二億の信者を持つローマカトリック教会は、中世においては西ヨーロッパを完全に支配しておりましたし、アングリカンとも呼ばれているイギリス国教会内の英国プロテスタントの中にまでもその直系の後継者を持っています。
その核心となる信仰は、まずは、父なる永遠の神と、人間になりイエスキリストとして、堕罪した人類の救済のために十字架にかけられた三一神の第二たる子なる神と、この世に働く能動的原理である聖霊としての神、これら三つの別な人格が不可分に一つとなっている、存在するすべてのものの創造者、三位一体の神に対する信仰でありまして、次には、一人ひとりの人間の中に不壊にして永遠な魂の存在を仮定しています。
佛教の中には見出されないこれら二つの主要概念は、十六世紀初め頃より分離して全く新しく信仰というものの役割を強調し始めた、さまざまなプロテスタント教会にも引き継がれました。プロテスタントの信仰というのは、天国に到達するのに必要なというだけでなく、必要にして充分な方法となりました。
それ故に、高度な思想構造を持つカトリック神学においてさえも、中世神学者中最も論理的であった聖トーマス・アキナス自身が、神の存在について五つの証明をした後に、信仰という賜がなおも必要であると述べざるを得なかったということを思い起こすことは重要であります。
浄土真宗においては、阿弥陀佛とその本願に対する完全な信仰が、すべてのその他の形の佛教からそれを識別する、絶対的な中心となっている必要条件です。勿論、その信仰は、いかなる種のプロテスタントの信仰からも完全に区別されます。
「私は阿弥陀佛に帰依します」という意味の真言である「南無阿弥陀佛」という念佛を心の底から称える称名が、浄土に入るための必要にして充分な方法であり、完全な覚りの佛性へ至る出発点であり、そして涅槃への入り口です。
阿弥陀の無限な慈悲から流れ出る信仰という賜は、完全に阿弥陀佛からの贈りものであり、他力の実りです。いかなる人間の自力の実践も、いかなる功徳ある行為の集積も、いかなる善の実行も、浄土への到達には必要でないし、いかなる効用もありません。
信仰によってのみ義とされるという思想は、しかしながら、決して浄土真宗に限ったことではありません。
そういう思想が紀元前800年から600年頃リグヴェーダのウパニシャッドにおいてヒンズー教の信仰に存在したという事実は別にするとしても、親鸞聖人の時代から約250年後、15世紀後半から16世紀前半にかけて、それはキリスト教のヨーロッパでも独自な発展を遂げました。
したがって、浄土真宗の現在の西洋との関係という観点からすれば、浄土真宗に最も近いヨーロッパの宗教と浄土真宗が共有している諸点を見ると共に根本的に違っている諸点を観察するのは、恐らく面白いでしょうし、重要でさえあります。
信仰によってのみ義とされるという古典的な声明は、カトリック教会の信仰と行業に根本的改革を齎したいと思ったプロテスタントの宗教改革者たちが、1530年のアウスグブルグ帝国議会において、皇帝カール五世に提出した二十八ヶ条の一つとして発表されました。
これはその時ドイツの僧侶で宗教改革の開祖となったマルティン・ルター(1483-1546)が二十八論題に要約して、その同じ年に大聖堂の扉に貼り付けたものであり、この宗教改革は、引続く数世紀の間、合衆国などへ発展していく前に、北ヨーロッパと英国諸島の全体に広がりました。
『アウグスブルグ告白録』の第四条そのものにはこう書かれています。
また彼ら(宗教改革者たち)は、ひとびとが自分自身の力や功徳や行いによって神の前に義とされるということはあり得ないが、ひとびとが恩寵に迎え容れて頂いていることを信じ、自らの死をもって私たちの罪を償って下さったキリストのお蔭で自分たちの罪が許されていることを信じる時、キリストのお蔭により障りなく義とされるのであると教える。この信仰を神は神の目で見た正義とみなすのである。」
この一節には、浄土真宗との主要接触点と浄土真宗にとって全く無縁な諸要素、その両方の要点が出ています。
信仰によってのみ義とされるというのは、ローマカトリック教会の教義とは全く反対で、ローマカトリック教会は、罪人は罪の贖いを伴う懺悔によってのみ神の国に至ることができると考えて来たし、まだそう考えています。
その信仰による義認という思想が創まるのは、勿論以前に述べましたように、創造者たる神への信仰と不死の魂の信仰という文脈においてですが、それは『アウグスブルグ信仰告白』では触れられていません。なぜなら、その信仰はカトリック教会と共有し続けており当然のことと思われていたからです。
十八願が真宗信者にとっては「同輩中の第一人者」的役割を持つように、ルター派のプロテスタントにとっては、『アウグスブルグ信仰告白』の凝縮版である二十八論題中の第四論題が、同様の立場にあります。
それは決定的な簡潔さを以て「人間は、私たち自身の能力によって神の前に義とされることはあり得ない。私たちは神との和解のためには完全にイエス・キリストを頼むのである」と述べています。
これは、「行いがなくても神に義と認められる人の幸福」ということに関して、キリストの弟子、使徒パウロ(一世紀)が、彼の『ローマ人への手紙』(第4章6節)で述べている言葉を反映しており、それが『アウグスブルグ信仰告白』の第四条において言及されているのです。
これもまた『アウグスブルグ信仰告白』に引かれているのですが、パウロの『エペソ人への手紙』(第2章8-9節)において、パウロは、
「なぜなら、恩寵のお蔭で、あなた方は信仰によって救われるのである。それはあなた方自身から出たものではなく、それは神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、何人も誇ることがないためなのである」と述べています。
浄土真宗との類似性の顕著なることこの上ありません。
真宗の実践において大変大事な役割を演じているし、日本人の英語圏の人々との接触において、中でもプロテスタントの人々との接触において、非常に重要である「真実の出会い」というものは、どれ程両者の距離が大きかろうとも、大きいままであろうとも、色んな形で既に共有している心構えの理解が、その出会いの実現に常に大きな助けとなるのです。
何故でしょうか、そういうことを考えることによって、私は、何年も前の私たちの最初の出会いの直後に作って、タイラが翻訳したある詩のことを思いました。
純粋な信仰の あなた方と 何事にも 確信のない 私が ただ一つの 道を 旅します
ルター派の人々は、予期できないわけではないが、彼らが善い行いに反対しているという非難に対して、極めて高い関心を示し、第二十条において信仰の第一義性を繰り返す時、聖アンブローズの
「信仰は善意と正しい行いの母である」
という言葉を引用して、
「さらに、善い行いをすることが大事であるということは自らさとるべきことがらであって、善い行いによって恩寵に値すると確信すべきだということではない。なぜならば、それは神の意志だからである」
とも述べています。
親鸞聖人は明らかにそういう攻撃に関してはそれほど心配していませんでした。というのは、この点に関しては、阿弥陀佛の第十九願の含意と何世紀にもわたる浄土教の伝統を信頼していたからです。親鸞聖人はまた自利と利他の相互関係について『教行信証』の行巻(天親引文)に
「菩薩はかくのごとく五門の行を修して、自利利他して、速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得たまえり」
とも述べておられます。
同じく行巻(源信引文)の佛の六種の功徳の第六番目においては
「世間出世間の功徳円満した菩薩」
であると述べ、
また同じく行巻(曇鸞引文)においては
「(菩薩は)利他に由るが故に則ち能く自利す……と知るべし」
と述べておられます。
これらの文章は明らかに、親鸞聖人のお心には、無上覚に至る道において「純粋な信仰」と「善い行い」の間の親密な関係があったことを示しています。
現在世界中で六千四百万人ほどの信者がいるルター派の教会の多くでは、『新約聖書』の教に反するものでない限りは、カトリックに由来する習慣や装束や設備が維持されています。
プロテスタントの宗教革命を推し進めた人々の中で第二番目の人は、マルティン・ルターの同時代人、ジャン・カルヴァンというフランス人で、ジュネーヴで活動、宗教的な信と行のあらゆる問題で『バイブル』を唯一の権威と見做し、遥かに急進的で厳格な人でした。
カルヴァン派の改革教会が、つまり長老派教会が、生まれたのはこの人からで、凡そ四百万の信者を擁していますが、もっと時代が下がって構成されたルター派・改革派統一教会の約二千六百万の信者が加算されねばなりません。
長老派教会では、『アウグスブルグ信仰告白』が言及した使徒パウロの書簡中の同じ文章が大いに強調され、『新約聖書』ばかりではなく、「信仰のみによる義認」という彼らの中心的信念を引証する『旧約聖書』中の文章も、大いに尊重されます。
彼らはまた遥かに強い形で人類の完全な堕落を信じて、信仰による義認に「予定説」、つまり「絶対的選択」という教義を付け加えます。
完全な堕落というのは、勿論必然的に煩悩に覆われている凡夫という浄土真宗の概念と実質的に互換性のあるものですが、彼らはすべての人間が完全に堕落しており人間的観点から善と思われるものを実行できないようになっていまっているとは考えないのです。
しかしながら、その善というのも、単に相対的な善に過ぎず、真実信の結果ではないのだから、神の目から見た是認は得られません。
これはその意図するところにおいて親鸞聖人が『教行信証』において述べていることと同一であります。親鸞聖人は、天親の『浄土論』についての曇鸞の註釈である『論註』から引用して、
汚れた心から作られる功徳があって、それは法性とは一致しません。原因であろうと結果であろうと、愚かな人間や天人の善の行為はすべて顛倒しており、空しく、間違っています。それ故に、それは不真実の功徳と呼ばれます」
と述べています。
カルヴァン派の「予定説」、または「絶対的選択」の概念は、すべての人間の運命を永遠にわたって知り尽くしている全知全能の神に対する信仰から直接に派生しています。
長老派の人々の見方に従えば、神がキリストの信仰による救済のために永遠に或る人々を選び取り、彼らのためにはとりなして、その他の人類が自らの選んだ悪に溺れて究極的な断罪を受けるに任せるのは、純粋に神の慈愛からであるということになります。
キリストの受難による人間原罪の贖いは、それ故に、部分的で有限な贖罪です。
この点に関しては、勿論、すべての人間に浄土に至る可能性を開き一切衆生に対して事実いかなる種の区別も差別もしない阿弥陀佛の十八願に対する浄土真宗の信仰とは根本的に異なっています。
「完全な堕落」と「絶対的選択」と「有限な贖罪」という三つの概念に関連して、「抵抗不可能な恩寵」と「究極救済」という更に二つの信仰があります。
最初の「抵抗不可能な救済」というのは、神が救済のために選んだ「神の選民」は、いかに退転しさまざまな罪に堕ちようとも、結局キリストの救済の恩寵の力には決して抵抗できないという意味です。
二番目の「究極救済」というのは、「一度救われたら、必ず救われる」と要約できます。
一度信じたら、あなた方が迷うことは決してありえないし、地獄に行くこともありえません。なぜならばキリストは常にあなた方の救済者だからです。そして選民は自分の信仰から外れないでしょう。なぜならば、救われるのが彼らの永遠の運命だからです。
予定説の問題をさておくとすれば、長老派の人々も、真宗信者が不退の位、摂取不捨の正定聚の位と見ているものに相当する位に自分たちが置かれていると看做すのです。
一方ですべては神によって予め決められているけれども、キリストを信じるか否かは個々人に由るのであって、もし信じないのであれば自分自身以外に非難すべきものは誰もいないという、長老派の信仰の中心にある矛盾は、無理なく受け容れられます。
まさに釈迦牟尼佛陀にとって法論が「不可称、不可思議」であるように、ローマンカソリックの人びとにとっても幾つかの神秘(ミステリー)、俗な言葉で言えば絶対的な矛盾があり、それは理性の領域を超えているのですが、信仰において和解せしめられるのであって、それ故カルヴァン主義の人びとにとっても神の業は人間理性の領域を超えたところにあるものとして簡単に受け容れられるのです。
同様にして、神の誤りなき言葉としての『聖書』に対する信仰は、人間の論理の限界を超えているのですが、それを読んで自らがそれを受け容れるのは、個々人の義務です。
浄土真宗においては、親鸞聖人の時代以降、従来の佛教と大きく変わったのは、在家信者の役割が増大したということでした。今日宗教法人正行寺は、選出された住職と五人の在家の理事によって運営されています。
三輪精舎の場合、最初の七人の理事は、正行寺御住職と佐藤顕明師と五人の在家の理事でしたが、今では十三人の理事の内十一人が在家で、その内三人は女性です。
何となく似通っているのですが、長老派は代表制の組織で運営されており、一つ一つの会議において、権威は「長老」(プレスビターズというのは長老を意味するギリシャ語から来ています)と呼ばれる選出された在家指導者達に与えられ、その人たちが会議に出る聖職者と共に働くのです。
長老派が僧侶の階級制度で運営されていないのは、主として、個人的な聖書拝読に重点をおいている結果であり、カソリック教会の僧階制度に関係したすべての肖像や備品や儀式は一掃されてしまっています。
長老派に比べてもっと寛容でそれほど独善的でなく厳めしくもない、世界中に約二千三百万の信者を持つメソディスト教会が生まれたのは、約二百年後のことでした。
1738年にジョン・ウェズリー(1703-91)によって創められたメソディスト教会もまた最後には、もともとカソリック教会によって伝承されて来て、当時のイングランドで主流だった英国国教会派の信仰においてもまだ維持されていた、諸々の組織や付属品や信仰の多くを一掃し去りました。しかし、長老派の砦であったスコットランドにおいては、そういうものの継続はすでに少なくなっていました。
浄土真宗のようにメソディスト派もまた信仰のみによる義認に基づいています。
ジョン・ウェズリーの信仰の獲得について読めば、親鸞聖人が『御消息』などで繰り返し言及しておられる一念の信心のことを思い起こさざるを得ません。
1738年のはじめにジョン・ウェズリーはピーター・ボーラーというモラヴィア人牧師に出会って大きな影響を受け、なかんずく、瞬間的な回心が『聖書』の教えであることを確信せしめられました。
その結果、ジョン・ウェズリーは1738年4月二十二日の日記に「私は再び聖書中で、特に『使徒行伝』の中で、そのこと自体に触れている部分を探索したが、驚いたことに、瞬間的回心以外の例がそこには殆どないことを発見した」と記しています。
これは、疑いもなく、一ヶ月後五月二十四日の彼自身の驚くべき経験に関係しているに違いありません。
彼のいわく、
「夕方私はいやいやながらもオルダーズゲイト・ストリートにある協会に行くと、(聖パウロの書いた)『ローマ人への書簡』へのルターの序文が読まれていた。 九時十五分前頃、キリストの信仰によって神が心にもたらす変化を描写しているところで、私が私の心が不思議にも温まるのを感じた。 私は、救済のために、キリストを、キリストのみを、信じたと感じた。そして、キリストが私の罪を、私の罪までも、除き去り、私を罪と死の掟から救済したという確信が与えられた」と。
その上、勿論ジョン・ウェズリーは知る由もなかった、親鸞聖人ご自身の経験との類似点は、そこで終わりません。
「キリストは、私のために死に、私を愛し、私のために自らを犠牲にしたという彼の確信」ついての彼の宣言が、彼が「新生」と呼ぶものの中心です。
ウェズリーの言葉は、唯円が『歎異抄』の「後序」において師の常の仰せとして書いた言葉の、ほとんど言い換えとでも言うべきものです。
「彌陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。」
1746年に出版された彼の『四十四の説教』の第一番目に依れば、ウェズリーは1738年六月十八日に、彼以前のルター主義者やカルヴァン主義者の如く、聖パウロのエペソ人への手紙(第二章八節)「恩寵により、あなた方は信仰で救われるのである」という典拠に帰ります。
ウェズリーは、罪深い人間が自分自身を救うために自分の努力で出来ることは全く何もないが、救済の確実性は本当にこの人生で達成され得るのであると宣言する点において、『小経』の如く、したがって親鸞聖人のごとく、絶対的です。
彼自身の言葉で言えば、
「私たちの存在、所有、行為のいずれであっても、神のみ手の内にある最小のものにも値し得るものはないからである。嗚呼、神よ、私たちのすべての行いは、汝が私達の内に齎したもうたのである。」
そして後ほど書かれた色んな文章で彼のいわく
「では一体何によって、罪人は彼の罪を、その最も小さなものでさえ、償うというのだろう?彼自身の行いによって?否。」 キリストは私たちを救うために死んだ。したがって『恩寵のお蔭であなた方は信仰によって救われる』。恩寵が根源であり、信仰は救済の条件である。 …..それは現在の救済である。しかり、実にここ地上において達成されるのである。…..なぜなら使徒はかくのごとくエペソの信者に語りかけ、それによってあらゆる時代の信者に語りかけているのである。…..聖書には、ここにも別な箇所にも、いかなる限定も制約もない。」
このような文章においてウェズリーは、カルヴァン主義の人々の「予定説」や「限定贖罪」に関して明らかに彼らから遠ざかろうとしていますし、ルターのように、彼もまた、罪責や罪の処罰からの救出を意味する、信仰による義認を信ずることが、よい行いの実践を攻撃したり妨害したりすることになるという非難を論破することに深い関心を持っていました。
ウェズリーは、彼の「説教」の第三節を始めるに当たって、聖パウロの時代まで遡るこの根本的な異議申し立てを扱いました。
「信仰によってのみ救済されるとか義認されるという説教が神聖なるものや善い行いに反対する説教になるということ。そういう非難に対しては、『もし私たちが、或る人々のするように、神聖なものやよい行いから分離した信仰について語っているのであれば、そういうことになるかもしれませんが、しかし私たちはそうではなくてあらゆる善い行いとあらゆる神聖なるものを生み出す信仰について語っているのです』という短い答えが与えられるでしょう。」
彼は次にはありうるその他全ての異議を並べて長々と論駁しました。
この点において、ウェズリーは、ルター主義の人々と一つであるばかりでなく、勿論親鸞聖人の教義や真宗信者の実践とも一つです。
メソディズムは、カルヴァン主義や「ポパリ」と呼ばれていたローマンカトリックに対して、後には、当時国の公認した宗教であったし今もそうである英国国教会の「三十九箇条」への追従に対しても全く反対して、主として四事に基づくことにしました。
その四事の第一は勿論『聖書』、『聖書』の拝読であり、それに経験と理性と伝統が付け加えられました。ここで佛教との或る種の類似性を見るために、別な点では両者の間に存在する広大な懸隔にもかかわらず、そのキリスト教の『聖書』というところに佛教の『経典』を置き換えてみるとしても、恐らくは完全な間違いということにはならないでしょう。
メソディズムの歴史は、多くの異なった分派や分離団体やよって起こる再結合があって、極めて複雑です。
しかしながら、振り返ってみれば、結果としての分裂は止むを得なかったのだけれども、ウェズリー自身は任命された英国国教会の執事であって、英国国教会からの独立を計画したわけではなくて、1784年には「私の魂が私の体から離れるまでは英国国教会から分離しないと思います」と宣言し、その三年後には「メソディスト達が英国国教会を去れば、神が彼らを去るでしょう」と述べました。
初期のメソディスト達は、定期的に英国国教会の勤行に出席していました。メソディズムは一連の地方の協会として出発したのであって、もともとはしばしば英国国教会の教区牧師の指導を受けており、地方の在家説教者達に支えられていました。やがてこの在家説教者達には、一連の七巡回説教に割り当てられる巡回在家説教者のチームが加わりました。当時の僧侶や説教者達は、本来的に独裁者であり民主主義者ではなかったウェズリー自身が厳密に統制していた協議会と呼ばれるものに集まっていました。
しかしながら、1784年、その同じ年に、三つの事件が分離を促進することになりました。
第一には、協議会が「独立証書」に署名して、メソディズムに法律的な独立を与えました。第二には、アメリカにおける僧職者不足のために、ウェズリーはメソディスト聖職者叙任式を独立させることに同意せざるを得ませんでした。最後にウェズリーは、『英国国教会祈祷書』を改訂して、1791年の彼の死後直ぐに、英国国教会からの分離は完了しました。
何時ものように、少しだけ勉強して、私はまた膨大な領域にわたる私の無知を知りましたし、その無知の程度のために、英国やアメリカのような英語圏の世界を知るようになって来ている真宗信者の出会いの過程を豊かにしたいと思って検討し始めた事柄を、疑いもなく、単純化し過ぎたり、単にその表面を滑るだけになってしまいました。
信仰によってのみ義とされるという信念が、真宗信者にも、ルター主義やカルヴァン主義やメソディズムのキリスト教徒にも、どれ程まで共通しているかという事実の認識は、彼らを分けている多くの根本的概念の明瞭な理解の減少を引き起こすものではないし、そういう方向に行くべきものではありません。
類似性と相違性は同一コインの二面であり、もし佛教的な意味で何らかの真の出会いが起こるべきであるとするならば、両面が充分に配慮されねばなりません。
それにも拘らず、1863年と1865年の先駆者たちに捧げられたUCL記念碑上の俳句を引用して終わるのは、おそらくは適切であるかも知れません。
はるばると こころつどいて はなさかる
Talks at Shogyoji
by John White