仏教と逆説と実在

自然界の分類や区分けに主な関心を向けていた18世紀から19世紀の科学と反対の方向に進んでいるのが現代科学だ――そういった事実について、私はこれまでさまざまな機会にお話ししてまいりました。

今、ありとあらゆる原理をすべて統合する「大統一理論」を発展させようと、何万人もの数学者や科学者が努力しています。そうすることによって「すべての有と無の一如」という古典的仏教概念に匹敵するような科学的理論を創造しようとしています。

宇宙の本性を理解しようと努力している宇宙学者や天文学者たちですが、いまのところ、その数学と観察が一致しないという事実に直面しています。一致させるためには、彼らの等式に仮定値の宇宙学的定数を挿入したうえで、地球という特殊で小さな宇宙空間から見て、重力の強さと質量の分布がともにどこでも等しいという仮説を立てなければならないのです。

そのうえ、宇宙空間の均一性に関して科学者たちは、宇宙に観察可能な広大な虚空、所謂「超虚空」があるのだと最近になって発見しました。これは、直径18億光年にもなると言われるもので、これによってすでに、科学者たちは考える材料を与えられています。ちなみに、一光年という単位は、9,5兆キロメートルほどにもなります。

私たちは日常生活において「上下」を非常に強く意識していますが、宇宙全体では、それは存在しません。「上下」というのは、私たちが生活する地球との関係から派生した、まったく人間的な概念であり、その「上下」というものがないというのは、ほんの些細な逆説に過ぎません。

それよりもはるかに手ごわく、広範にわたる概念は、時間です。

「時間は実在する」。そう想定したアインシュタインは、時間を、観察者と観察対象の位置と相対的運動によって常に変動している相対的な存在に過ぎないと理解しました。しかし、1世紀から2世紀ごろに活躍した浄土真宗の第一祖、ナーガルジュナ(龍樹)は、時間は客観的存在をまったくもたないと考えました。

ナーガルジュナの信念は、多くの初期仏教徒の直感と同様に、現代科学思想の驚くべき予見でした。それに気づくかどうかは別問題として、そういったことはすべて、私たちがまだ自分たちの宇宙の本性を理解するにはほど遠いところにいるのだということを示しています。

私たち自身は物質そのものでできています。それにも拘わらず、その物質を客観的に研究しようとしている私たち自身は、そもそもその全体がなぜ存在することになったのか、あるいはもし存在するのであれば、その究極的な実在の本性がいかなるものであるかについて、決して知ることはできないでしょう。しかしながら、そうした事実と、宇宙の本性を理解することは全く別の問題です。

初期仏教徒は、いくらか違うかたちではあれ、同様の問題を抱えていました。

彼らは、宇宙の起源の問題、そもそもなぜそれが存在することになったのかという問題には、ほとんど関心を払っていませんでした。

彼らが考えていたのは、「宇宙は創造されたものでない(無為)」「宇宙は常に存在していたし、初めもなければ終わりもない(無始無終)」ということです。つまり、宇宙はただ端的に、創造の神が存在するとか、かつて存在した、というような観念を寄せ付けない、永遠の事実であるというのです。

ここまでは順調です。しかし、問題は次からです。

経典という経典、あらゆる経典において非常に明確なのは、釈迦牟尼仏と彼の弟子たちが、究極的実在は不可称、不可説、不可思議であるとしている点です。

では、それについて一体どのように語り合えるというのでしょうか。

もろもろの経典は実際のところ、かつて書かれたことがないし、書くこともできなかった論旨の暗示的表現です。これは困難な点ではありますが、そこからおそらくは必然的に、諸経典の逆説を含む根底的な部分が造られたのです。そこに含まれている逆説は、仏教的思想のあらゆる側面において、自己矛盾的な所説や論点の組み合わせとして、その大きな役割を果たしています。

おそらく、私たちが予想するよりもはるかに自然に、そういうことになったのでしょう。なぜなら、逆説の使用例は、少なくとも紀元前1世紀から2世紀ごろのインドの『リグ ヴェーダ』まで遡れるからです。

「そのとき非存在も存在もなかった」。これは、素晴らしい初期「創造讃歌」の冒頭の言葉ですが、その後次から次に出てくる詩句においても、あらゆる種の逆説や逆説的表現が詠われています。

仏教の中心にある諸経典を専門外の人びとが読み解こうとしたり、翻訳したりするうえでの大きな障害は、3つの異なるレベル(断層)の論説が諸経典に含まれているように思えるという事実に由来しています。

第一の高いレベルは、「創造されていないもの(無為)」のレベルです。

それは、宇宙の永遠の法則、「法」のレベルであり、佛陀の真実の体である法身のレベルであり、究極的実在と同体です。

「すべての有と無の一如」のレベルでもあり、いかなる区別もそこにはありません。

それは、「不可思議」にして「不可説」なもののレベルであり、当然のこととして、概念的思考や観念や範疇の範囲をまったく超えており、言葉に表現することはできません。

第二の低いレベルは、「創造されたもの(有為)」のレベルです。

これは、有情のレベルであり、言葉のレベルです。思想や観念を伝達することができるのはこのレベルにおいてです。

それは、組織化や論理のレベルであり、区別することに基づいています。

それは、使用する言葉の意味の定義と、定義された言葉の創り出す範疇の首尾一貫した使用に依拠しています。

それは、経典が不可説な第一の高いレベルへと道を開こうとするレベルでもありますが、そうした第一の高いレベルの存在はしばしば、特別な範疇や区別を用心深く並列することによって暗示されています。

第三のレベルは、「神秘と逆説」のレベルです。

それは、最初の二つのレベルの限界を避けるために、言葉を用いようと努力するレベルです。

日常的論理を超えたもので、「公案」もしくは矛盾した言葉、逆説的表現などを用います。

この第三のレベルでの言説そのものは、効果的に説明できるものではなく、ありのままに受け取り、ありのままにしておくほかありません。

言葉では容易に表現できない、感情や直感の領域なのです。

にもかかわらず、逆説や矛盾した言葉を使用し、それを次から次に積み重ねることで、第一の高いレベルの存在を暗示することができます。

しかしながら、ここではっきり申し上げておきたいのは、「第三の」という名称が、「最も低い」という意味でないということです。

それは、第一のレベルに分類しても決しておかしくはないものです。なぜなら、太古以来あらゆる部族的民族的宗教にとっては、神秘というものが中心にあるからです。そして、神秘は、ヒンズー教や仏教などでも大きな役割を果たしているのみならず、キリスト教においても、大事な要素となっています。ただしキリスト教の場合は、さまざまな意味で、非常に異なった基盤に立っているように見えます。

プロテスタントの教義に対峙する、ローマン・カソリックの主要な実例を挙げてみましょう。ミサにおける「(聖体の)犠牲」は、「聖餐式のパン」つまり種なしパンのウェハスが、譬喩的な意味ではなく実際に、十字架上の救世主、「身体と血液、霊魂と神性」に変容すると見ます。これは実体変化の瞬間であり、ここに中心をおいているのです。

忘れ去られがちなことですが、中世期に衰退してしまうまで、僧院制度がキリスト教伝播の推進力でした。神秘ないし神秘主義のレベルにおいては、これら3つの宗教が非常に近くなります。こうしたことを思い出すのも、そう難しいことではありません。

カトリックにおいて、俗界との関係を断っているカルトジオ修道会では今でも、僧侶も尼僧もかつてのような外界から完全に遮断された祈りと瞑想の生活に専念しています。

14世紀のカルトジオ派の瞑想家であった『不知の雲』の著者、氏名不詳のこの神秘家は、第六節の冒頭において「さて今やあなた方は、『神さまご自身のことをどのように思うべきでしょうか』とか『神とはいったい何なのですか』と問われるかもしれません。私が答え得ることは唯一『私は知りません』ということです」と述べています。その際の彼はまるで、釈迦牟尼仏の足許に座っての聴聞から出てきたばかりのようだ――そう言っても決しておかしくないでしょう。

第九節の見出しで「瞑想において思想は助けになるよりむしろ障りになる」と言明していますが、この場合も同じことが言えます。

第三十四節の見出しで彼が「神の恩寵はいただくもので何かへの報酬ではない」と言うときには、聖パウロや親鸞聖人に話しているかのようにも感じられます。

『涅槃経』は、第一レベルと第二レベルの間にある「不知の雲」を超えて、不可説な第一レベルが存在することを暗示する、第三レベルの論説行使の古典的な実例を内蔵しています。

それは、如来の金剛身に関して途切れなく一頁半もの長きに亘って続く一連の表現です。そのうちの40ほどは、明らかに直截的な逆説となっていて、それと密接に関係する他の表現に取り囲まれています。(ブラム訳、91-93ページ)

「金剛身」についての実例を5つだけ挙げてみましょう。

「それは、存在せず、かつ存在する」

「それは、受動的でもなく、能動的でもない」

「それは、統合されないし、区別もされない」

「如来は、一切衆生を救い、しかもだれも救わない」

「如来は、涅槃に入るとき、涅槃に入らない」

といわれています。

一つひとつの逆説は、その逆説の中の真反対に対立する二つの構成要素のどちらともが適用不可能であることを示しており、より高い不可説な実在があることをすでに暗示しているのです。

次から次に出てくる逆説の魅惑的な蓄積は、思議可能な第二レベルの概念に適切なものはまったくないということを証明し、断固として反復を続けることによりその点を認めさせます。

そのような処置に必然的に伴う難点は、明確に認識されています。なぜなら、『涅槃経』の始まりに近いある部分において、「金剛身」は「不可思議であり、常に不可思議であるであろう」と語られ、別の場所では「それは、言葉から離れて存在し、言葉を持たない」と言われ、逆説のリストの終わりのほうでは、「それは、身体でないし、非身体でもない。これを十分に伝える方法はない」と言われているからです。

しかしながら、『華厳経』(クレァリ訳第二巻1153ページ)には、注目すべき句があります。そこでは、そのような逆説的言説の意味というか意図が、「仏陀は有限でもなく無限でもない。大聖は、有限と無限を超えている」という宣言によって、極めて明瞭に表現されているのです。

実在と言うとき、私は、究極的実在のことを指しています。これは、私たちが認識する迷妄の世界の実在ではなく、本当にまったくの「他者」です。

色と空について、簡潔かつ逆説的な論を展開する『般若心経』の最終行では、それが素晴らしい詩句として表現されています。究極的実在そのものについていわく、

「往き往きて、超え往き、完全に超え往き、すばらしい目覚め、幸いなるかな!(羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶)」と。

この部分はしばしば、謎めいたものであるかのように言及されています。しかし「観世自在王菩薩が完全に超え切った智慧を深く行じていた(観自在菩薩行深般若波羅蜜多)」という冒頭の文章に照らしてみれば、これがなぜ謎であるかのようにみられるのか、その理由は理解しがたいと言わざるをえません。

実にそれは、第一の高いレベルの論説と第二、第三レベルの論説の間にある懸隔を明瞭に描写したものであり、それを超えいく必要と、それを超えたときの喜びを描写したものでもあります。

論理と習慣的な言葉と区別と範疇のレベルである第二レベル、つまり私たちが普通に生活しているレベル、このレベルの束縛から逃れるために「超えていく」必要があるということを、『華厳経』ほど簡潔に説くものは、ほかにはないでしょう。そこには

「……一切の世界にはただ言語表現があるだけで、言語表現は事実に基礎を持たない。また、事実は言語に基礎を持たない」とあります。(ブラム訳、462ページ)

大乗文献には、それ独特の、異なるレベルにある三つの論説があるのですが、それが認識できないでいるために、創造されていないもの(無為)のレベルである第一レベルとすべての被造物や話し言葉や書き言葉が必然的に所属する第二レベルとの距離が認識できない場合には、非常に深刻な結果を伴うことになります。その深刻な結果というのは、怪しむことを知らない読者が往々にしてはなはだしい自己矛盾と思われるものに直面してしまうということです。

『涅槃経』においては早くから、佛陀は詩のかたちで次のようにお述べになったと言われています。

「すべての被造物は

無常である。

生れた後、存続しない。」(ブラム訳、48ページ)。

しかし、そのほんの200ページ後に佛陀は

「しかし賢人はよく見極めて

決してすべては無常である(諸行無常)と言うべきでない」(ブラム訳、243ページ)とも言明しておられます。

経典の最初の例で展開されているのは、通常の第二レベルの論説です。佛陀が話しかけているのは職人の息子である弟子のクンダであり、それゆえに、自分の言いたいことを普通の人が理解できるようにと「方便」を使っておられるからです。

しかしながら、第二の事例では、まったく予想もしていなかった、矛盾しているようにすら見える表現を直接的に説明するため、

「なぜか? それは、人の体には佛性の種子があるからである。」と述べておられます。

釈尊の断言とその説明を、別々にではなく照らし合わせてみると、その経文全体が、第一レベルの論説と第二レベルの論説に表明されていない暗黙の融合を含んでいるということがわかります。それをいったん理解しさえすれば、完全にその意味も理解できます。なぜなら、ほかの場所でも繰り返し論じられているように、無常なる人体に本来具わっている、知られざる佛性は、被造物ではなく永遠だからです。

この事例やその多くの事例においても、経典はいつもこの二つのレベルの論説の間を行き来している――いったんそう心得るならば、自己矛盾は、実際にはうわべだけで、現実のものではありません。

前述したように逆説的所説を蓄積していくことは、実は、実在が第一の高いレベルにあることを示そうとするものです。そのことは、先行するリグ・ヴェーダの実例だけでなく、その後の禅の発展によっても確認されます。

臨済宗において、分析的概念的解明方法のない提言である「公案」を使用するのは、修行期間中の修道者が、第二レベルの論説から第一レベルに向上し、実在の真実を直接的、直観的に体得するための主要な方法だと理解されています。

私も幾度となく言及してきた、人口に膾炙している公案のひとつは、「隻手の声」です。この公案によって私は「華厳の逆説」と題する詩を生み出しました。それは、こういったものです。

隻手の
声は

実在の
鼓動

静寂の
実声

そこに
二元なし

撥もなければ
太鼓もない

その他の典型的な「公案」としては、「父母未生以前の本来の面目如何」などがありますが、非常に短い話に問題を暗示しているものとしては、「僧が『如何ナルカ是レ祖師西来意』と問うと、趙州禅師が『庭前ノ柏樹子』と答えた」というものがあります。

しかしながら、逆説にはさまざまな種類があって、禅の「公案」のようなものとか、大乗諸経典に見られる移行的にして時には密教的な意味合いを持つ逆説的表現とか、そういったものに限られているわけではありません。

逆説は、単なる言語的自己矛盾ではありません。「矛盾する性質を結合する何か」という広い意味においては、私たちの日常生活の構造そのものにもともと具わっているものなのです。

皆さんすでによくご存知のように、ほぼまったく無知という状態で二十回ほどの連続講義を始めてしまって、進むにつれて私は勉強しなければなりませんでした。

そういったわけで、以前逆説についてお話ししたとき、さらに現在の講義について考え始めたほんの二、三年前ですら、私は、私たちの「存在の逆説」ということがどれほど重要であり、どれほど中心的なことであるかについて、十分に考えがいたっていませんでした。

たとえば、ここで、「進化」という主題を取り上げるとしましょう。「進化」が「逆説的である」と考える人はほとんどいないのです。

「進化」と言うのは常に複雑化するいろいろな形のいのちの誕生と発達の物語である―「進化」は通常、単純にそう受け取られていますが、実際のところ、進化は死に依存するものです。

死がなければ、進化はありえません。もし死がなければ、絶えざる反復が続くだけで、加速的かつ爆発的な人口増加へとつながるでしょう。

あらゆる種の有機体において世代間に起こる突然変異を、良くも悪しくも、変化と発展のエンジンにできるのは、ただ死だけなのです。悪いほうの選択肢は自然淘汰の過程によって除去され、最適最善の選択肢だけが、有機体の環境に適合して保存されるのです。その結果、それらの有機体は環境の形成に資し、それを変形させることもあります。

個々の存在として不適合なものは早死にするのですが、世代交代の時の経過によく適合できない種も、何らかの理由で生き残ることができません。

しかしながら、本当に逆説的なのですが、死は、私たちを含めたすべての生物学的存在にとって、できるかぎり長く撃退し続けられるようにと、その生体プログラムに組み込まれているものなのです。

しかしながら、ここで私は、そういった一般的な法則に相反する唯一の例外に言及せざるを得ません。その例外というのは利他主義です。以前、利他主義についてはライオンの群れという文脈でお話ししたことがあります。そのとき私は、極めて複雑な意識と下意識を頭脳に備え自-覚のある動物、私たちのような動物にとって、本当に利他的であることがいかに難しいかについてお話ししました。

蜂や蟻のような昆虫に利他主義があるのを見るのは、本当に驚くべきことです。しかし、こうした利他主義が細菌やアミーバーのような単細胞の存在にさえ起こるのだという発見こそ、極めつきの逆説ではないでしょうか。

アミーバーは通常は孤立していますが、食糧難のときには凝集することがあります。それは、食料を見つける機会を逃さないようにと、一塊のグループとなって食料探しに出発するときのことです。そのとき、絶望的な事態に陥れば、周辺に位置するアミーバーはそのグループが全体として生き残るようにと自死するのです。また、ある種の細菌は、ウィルスに感染した瞬間、病気が広がるのを止めるため、自らを殺します。

バシルス菌類を大食いする単細胞海洋捕食者であるカフェテリア・ロエンベルゲンシスは、その天敵である巨大な単細胞状のウィルスに攻撃されると、侵入者を殺すためのより小さなウィルスを自分自身の内に造ります。そうすることで、反撃さえするのですが、それは自分のいのちを守るためではありません。自分が死んで壊れるときに、自分を攻撃するウィルスのコピーではなく、自家製の防御的ウィルスを拡散させることで、感染の拡大を止めようとするのです。

もうひとつ、大事な進化論的逆説を取り上げるとすれば、それはこれまでに何回も起こってきた大規模な種の絶滅です。そういう大規模な種の絶滅があるたびに、そのとき現存していた種全体の50パーセントから85パーセントほどが全滅してしまいました。大規模な種の絶滅というのは、最初の数十億年の相対的平衡状態の後にできた地上の有機的生命の歴史全体から見ると、有機生命の進展と変異の主要な源であった「着実な進化過程」とはまったく異なるものです。

今や私たちは地質学的記録から知り得ている、それら五つの大規模な種の絶滅がもしもなかったとしたら、人類は誕生していなかった可能性が非常に高いのです。

そうした一連の種の絶滅は、オルドビス紀の終わりの四億四千万年前に始まり、膨大な数の種とともに一億五千万年間の恐竜支配期の終焉を見た、六千五百万年前の後期白亜紀の大規模な絶滅で頂点に達します。

次の二,三百万年間は、それほど圧倒的な競争がありませんでした。やがて、まだ進化の初期段階にあった哺乳類が発達増殖して、ついには、少なくとも当面は、この特別な惑星上で支配的種になることができたのです。

これが次に、私たちが直面し、何らかの手段を講じなければならない、さらなる逆説的状況をもたらしました。

現況として、止めどころもない人口過剰は、人類が自ら招いた問題の最も深刻なものです。人類が食物連鎖の頂上に立ち、以前は人口の抑制に役立っていた捕食動物のほとんどを撲滅した結果、現在その問題に直面しているのです。

死とその進化論的役割についての恐怖心や誤解を私たちは生まれつき持ち合わせていますが、それと結びついていや増す慈愛の心と私たちの人間愛そのものも非常に大きいのです。そのため、発展しつづける技術力と急速に進展する医学をもって、ありとあらゆる手段でこの人口問題の悪化に貢献してきました。

そのような分野での急速な進歩がなければ、私や私のような何百万の人びとが、恐らくこの本堂におられる皆さんの多くが、増大する人口過剰に貢献することはなかったでしょう。またその過程において、少なくとも、豊饒と中産階級の増大の結果として出生率が現実に落ちてきている先進世界において、老若の相対数が不均衡になるということもなかったでしょう。未来の社会の安定性について、その結果を予見することはできなくなっています。

自然の他の部分ではすべて、少なくとも私たちがまだ破壊してしまっていないところでは、何らかのかたちで微妙な均衡が死によって保たれています。

セレンゲティ国立公園であろうとアマゾン熱帯雨林であろうと、人間以外の生態学的体系の総合的に健康である状態は、他の動物を捕食する動物が十分にいるかどうかと、その動物が餌食とする動物を抑制するため果てしない殺戮が繰り返されているかどうかに依っているのです。自然についてのテレビ番組では、当然ながら、そのような生態系が依存している、衝撃的で終わりのない殺戮に焦点を当て、ますます詳細に報道する傾向があります。

数千万年にもわたる私たちの進化論的背景と、私たち自身の抑制のきかない、捕食動物的な、時には自己破壊的な種としての先史時代と歴史を考えてみるならば、想像の世界において戦争行為と絶え間ない殺戮的暴行が増大し続けること、子ども達やティーンエージャーや大人の娯楽として、膨大な数量の漫画と映画とビデオゲームが生み出されていることは、驚くに値いしないのです。

そこからはさまざまな心理学的社会学的結果が派生しますが、それはまた、これまでよりもはるかに大きな注意が払われるべき問題でもあります。

そして、そこにはまたもうひとつの逆説が存在します。

宗教は、人類の多くにとって、実際にはそのほとんどにとって長らく、人類最高の念願をかなえてくれる大事なものと理解されてきました。宗教は、人類の最も顕著な特徴のひとつなのですが、それはまた、記録に残る歴史全体にわたって、戦争と大量虐殺と個々の殺しあいの原因となり続けました。

佛教そのものでさえも、繰り返し起こる暴力的なエピソードから完全に隔たったものではありませんでした。十五世紀に現れた、偉大な浄土真宗の中興の祖、蓮如上人は、ご存知のように、新しく建立し、賑わっていたご自身の寺を背に、吉崎からの退去を余儀なくされました。

それ以前にも、蓮如上人の京都の寺は、大きな既成仏教の一つであった比叡山天台宗の指導者たちから、彼らの覇権への大きな脅威になると見なされ、撲滅のために送られた僧兵によって焼き打ちに遭っています。

やむことなく勃発する宗教戦争のごときはさておき、善意の自由主義者や平和愛好家でさえもほとんど見落とすようなもう一つの逆説は、今日に至るまで、法律を制定し維持してきたのは、ほとんど例外なく武力によってであったということ、それに続いてその勢力を拡張してきたのは戦争と征服によってであったということです。

日常的に小さな戦争や殺戮が起こっているものの、今までのところ、強大国の核使用を抑止してきました。これは、全面的な核による大虐殺を脅迫の材料として用い、その脅迫を遂行するのに必要な数の何倍もの核兵器を備蓄することを厭わなかったからです。これも、また異なるかたちの一つの逆説です。

しかし、逆説は、歴史や世の中の出来事だけに限られていません。

生きている有機体である私たち一人ひとりが、自分自身の内に逆説を抱えています。

私たちはどうしようもなく頑固に、自分自身を離ればなれの個別的存在と見ています。現実の存在通りの複雑な生態系としてみなさないがために、「縁起」を何か外のことのようにとらえ、自分自身を単純に「縁起(すべては寄り合って起こっているということ)」の「結果」として見る傾向があります。しかし実際には、「縁起」は、私たちの外ばかりでなく、内にも、常に働いているのです。

「縁起」は、私たちの体内の細菌相のはたらきにもあります。一方では、そうして私たちを生かし続けているし、他方では、早すぎる死に追いやることもあるのです。それだけでなく、「縁起」はまた、私たちが意識的、無意識的にでも一つひとつの行動を起こすにあたって、その内部で本質的な役割を果たしているのです。

コンピュータのキーボードに一文字を打つために、腕を動かし、指を上げる――簡単に見えながらも、明らかに意識的な決断のすえの行為です。これは、実際には、信じがたいほど複雑な「縁起」と逆説のウェブ(網目状態)の結果です。

私の意識的自己に関する限り、そして、『涅槃経』であれば、その私の行為について言っていただろうように、

「それは、決断でも、決断でないのでもない」のです。

そして、それはもちろん、明らかに私のまったく知らない下意識によって、何ミリセカンド(時間の単位、千分の一秒)前にすでに決断がなされていたからです。

さらに、ことが起こった後でも、私は私が何をしたのかわかっていません。

神経科学者は、それを起こすために働いたニューロン(神経細胞)とシナプス(神経細胞の接合部分)が何であるかをすでに知っているでしょうし、解剖学者は、それに用いられるすべての筋肉とその順序を確実に述べられるでしょう。しかし、そのすべてについて、私は、つまり私の意識的部分は、何も知りません。

私はただそれをなすだけです。

少し違う言い方をすれば、生きている佛陀が、或るレベルでは私たちと同様に「縁起」の法に属しているがごとく、私たち自身はただ単に「すべての有と無の一如」の一部分に過ぎません。

基本的佛教思想の諸側面へ言及しているこの場においてでさえ、私たちの区分けの傾向がその醜い頭をもたげてきます。しかし、逆説の一切を摂取する役割を諸経典の遠い過去へと追いやってはなりません。

それは、今日の佛教にとってもまだ根本的に重要なものです。七世紀の中国で始まった禅宗や十三世紀に親鸞聖人によって開創された真宗のごとく、比較的遅くに発展した諸宗派においても今日まで生き続けているものなのです。

2010年に出版された革新的な『歎異抄』の翻訳解説本、『グレイト・リヴィング』の十五章、「人間であることと佛陀であることの関係」という一節において、佐藤平顕明は、「それは不一不二である」、「同一でもなければ二元でもない」と述べています。それは先述の『涅槃経』が「金剛身」に言及して「それは不一不異である」と述べている逆説の別な言い方(パラフレーズ)だと言ってもいいでしょう。

佛教においては、人生におけるごとく、私たちの存在の根本的な部分を逆説が形成しています。この話の講題に関して、私が実在についてあまり語らなかったのは、おそらく一種の小型逆説というか、原始逆説といっていいでしょう

それは、「不可説な」ものについて――つまり、常に「不可知」であったし、常に「不可知」であり続けるだろうものについては、あまり言うことはないからです。

初期佛教徒はただ「それは理解できないし、理解されるようにもできない」と言いました。そして、現代の科学者も、肥大し続ける現代素粒子物理学の複雑さに照らして、しぶしぶながらも、すでに同じ結論に追いやられているように見えます。

『自然物理学』という研究雑誌の編集長は最近、素粒子論についての小論を終えるに当たって、「では、結局素粒子とは一体何なのか……おそらく究極的にそれはすべて数学に過ぎないということを受け入れねばならないだろうし、等式だけが物質のはたらきを私たちに理解させてくれる案内である」と述べています。

それによって辿り着いたのが、真っ暗でもないと思う、この最後の詩です。

実在について

私はまったく何も
知りえない

私の夢見る
夢が

私の全存在の
すべて

短い喜びの
瞬間です


Talks at Shogyoji

by John White

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