芭蕉について

松尾芭蕉の俳句300句を、その5-7-5音節リズムの流れ、思想の流れに可能な限り沿って、ジョン・ホワイトと佐藤 平 顕明によって初めて厳密に訳した新訳は、The Haiku of Bashōに掲載されています。出版元:The Buddhist Society Trust, London, 2019.

昼も夜も、行く年も来る年も、私たちは、お釈迦さまがいとわれた「さまざまな区別」をしながらこの世を生きています。

科学というものができて最初の二、三百年の間、科学はただ、その「さまざまな区別」しかしていませんでした。前世紀の終わりにかけてやっと、物理学者(特に数学者)たちは、三千年前のインドの先駆者たちの跡を辿るようになり、大統一理論(万物の理論)――すべての有と無の一如という仏教的信念に当たるもの――を熱心に探求し始めるようになりました。

仏教徒も他のみんなと一緒で、彼らだけが特に勝れてこの信念を遵守していたというわけではありません。佛教哲学、特に経典類を覗いてみれば、そのどこにあっても、およそ考え得るもののほぼすべてが、五もしくは十、さらに十二や数百、数千にまで分けられていることがおわかりになるでしょう。

そして日本の俳人たちも、周囲の人々と同様に、「さまざまな区別」に免疫があったわけではありません。彼らにとって、それぞれの季節は特別な日に始まり特別な日に終わるものでした。

一年のうち、煤払のためには一日が、衣替えには二日が割り当てられており、俳句の世界ではさらに「季語」というものが定まっていました。絶対的正確さをもって、所与の俳句が一年のうちのどの季節に分類されるかが決まっているのです。実際の人生において季語が季節の事実にそぐわないことも多々ありましたが、格別な条件が添えられていない限り、月は秋のもの、蛙は春のものなどと決められているのです。

だからこそ、詩と科学の関係があまり論及されないのは、驚くに及びません。

ちなみに、現在は独立した詩の形態と見なされている俳句ですがが、始まったときはそうではなく、ひとつひとつが違う人びとによって詠まれ、時には百以上にもなる一連の連続的韻文「連歌」の一部分に過ぎませんでした。

日本固有の「連歌」の起源は、少なくとも12世紀まで遡ることができます。時の経過とともに、一組の連続的「短歌」として定型化するようになりました。「連歌」の構成単位である「短歌」は、前半と後半の二つに分けることができ、全体としては三十一音節の韻文です。「短歌」の5-7-5-7-7の連続的配列の最初の三行(5-7-5)は「発句」と呼ばれ、「俳句」という言葉の起源となりました。

芭蕉自身はたくさんの発句集を書いていましたが、それと同時に、多くの詩人たちを集め、結びつけるという数知れぬ大仕事に、単なる作者としてではなく、発起人としても参加していました。それは、注意深く統制されていながら、逆説的に自発的でもあるような詩の企画でした。

「連歌」においては、五音節から七音節へ上昇しまた五音節へと下降する、調和のとれた「5-7-5」の音の俳句が、5-7-5 5-7-5 5-7-5 5-7-5 ….という曲線的連続運動の一部を形成しています。これは、詩に現れた数学のサイン・ウェーヴ(正弦波)に当たるものとも見なせます。このサイン・ウェーヴは、必ずしも絶対的に正確なものではありませんが、自然世界にある非常に重要な様相を実証的に示すものであり、多数存在します。

この世のすべての湖、海、大洋などに生ずる波動や、膨大な数にのぼる異なった周波数の音波や電波は、サイン・ウェーヴの基本的な一例です。サイン・ウェーヴをもっと簡単に言うならば、ある振り子が、その振動に対する正しい角度を保ちながら、一定速度で動く一枚の紙に対して描き出す曲線のことです。

芭蕉自身(1644-1694)と、与謝蕪村(1716-1783)や小林一茶(1763-1828)といった彼の継承者たる偉大な俳人たちは、大局的には自分自身もその一部である自然を、熱心に仏教的集中(禅定)をもって観察しましたが、もちろん、現代的な意味での科学者ではありませんでした。

「無執着」という根本的な仏教思想の染み込んだ、雲雀についての有名な俳句

原中や
物にもつかず
鳴雲雀

を芭蕉が詠んだとき、

芭蕉自身も仲間の俳人たちも多分、その後の科学的研究が逆説的に証明したように、雲雀の楽しげな鳴き声が実際には時をかけて念入りに縄張りを宣言しているのだということを知り得ていなかったでしょう。しかしそれがかえって、芭蕉の深く感得した清浄無垢な心象に格別な迫力を添えているのです。

これは、芭蕉の俳句の詩的価値を減じるものでは決してありません。もしそれを知っていたとしても、おそらく芭蕉は、そのような自己中心的行動がそのような忘れがたい調和に帰し得たことを驚嘆したことでしょう。

同様に、当時の俳人たちの中で、雹がどうして暑い季節に生ずるかとか、雹の冬版である霰がどのようにしてできるかについて知る者はおそらくいなかったでしょう。

詩と科学の関係の一側面を持ち出してくるのは、共感覚(シネスシージア)の領域です。現代医学においては、ある特別な感覚ないし認識が神経経路を刺激することが、必然的に直ちに別の神経経路の経験につながるという神経学的状態を共感覚と言います。

なおその上、一切の有と無の一如という佛教概念は、私たちの五感を含んだものであり、外界に限ったものではありません。

その結果、共感覚(シネスシージア)において、そして芭蕉の句において、一つひとつの音は、単なる思考の対象ではなく、実際にひとつの色として見られるものであり、すべての色は匂いを持ち、一つひとつの香りは音をもっています。

次の俳句では、遠い鹿の声が一寸ほどの高さと見なされています。

武蔵野や
一寸ほどな
鹿の声

鹿の声と鹿そのものは、一つです。

共感覚に関しては、次の俳句のように、直接的な歴史的由来をもつものもあるでしょう。

海くれて
鴨のこゑ
ほのかに白し


この特別な俳句の場合、鴨の鳴き声の色はおそらく、日本で親しまれてきた古代道教の陰陽五行の体系において、白は秋の色だったという事実に由来しているかもしれません。

十七音節の原句が例外的に5-5-7の型になっていることをそのまま厳密に踏襲して、英語版の俳句も5-5-7になっているということも、言及しておくべきでしょう。私たちが上梓した、5-7-5 The Haiku of Basho、では、すべてをそのようにしています。

芭蕉やその仲間の俳人たちが共感覚(シネスシージア)を持っていたという証拠はもちろんないのですが、歴史的にわかりやすい先例が見つかる可能性がほとんどない中で、特にすばらしい複合的な例は次の句です。

さゞ波や
風の薫の
相拍子


もっとわかりやすいのは、芭蕉のこの句です。

風色や
しどろに植し
庭の秋


また、もっと複合的なのは、この句です。

松杉を
ほめてや風の
かほる音


ここには、生きとし生けるものを救済するという阿弥陀仏の本願の「一切の有の一如」的視野に対する芭蕉自身の共感が、松や杉や風をも含めるというところに反映されているように思われます。

それとはまったく別に、松尾芭蕉や彼の足跡を継承した極めて感受性の高い最高の俳人たちが活用した俳句固有の可能性がありました。それは、自然界の直接的な影響の下、たった十七音節の俳句によって、鋭い感性で観察した自然界の細部から、何かはるかにもっと広大で強力なものへと、予期しえない突然の飛躍を遂げさせるということです。

小さな花びらの静かな落下と、大きな滝の轟音が、この俳句では一つになっています。

ほろほろと
山吹ちるか
瀧の音


次の句に見られるように、芭蕉にとっては、布を叩く砧のごくありふれた音が自身を広大な宇宙の彼方へと運び得るものになるのです。

声すみて
北斗にひゞく
砧哉


これまでではっきりとおわかりいただいたように、タイラと私が今晩皆さま方に読み上げた英訳俳句はすべて、本来の5-7-5の形を維持しており、できるだけ日本語の原文の精神を尊重しようとした、初めての試みです。

日本語の原文における大事な5-7-5形式をまったく尊重しようとしなかったのは、少なくとも部分的には、50年代から60年代のビートジェネレーションの先駆的メンバーによる自己宣伝的な知的怠慢と詩作力の限界が、その後現れた俳句英訳者たち(英国人やアメリカ人、それに日本人も)の意図的決断にかなり大きな影響を与えたからだと言えるでしょう。

もちろん意図的にまだ俳句とは呼ばれてはいますが、そういう翻訳自体の功績はともあれれ、結果としては、別の言語に移された短い模倣詩を長い一覧表に並べたに過ぎません。

さまざまな例がありますが、極端なものをひとつ挙げれば、十七音節を七、八音節の長さに、あるいはそれ以下にまで切り詰めています。そうなると、英訳で、原文のリズム(韻律)にわずかにでも似たものが保たれる可能性はまったくありません。

これは些細な問題ではありません。

太古から最近に至るまで、詩自体の特有なリズム(韻律)は、いかなる詩においても、不可欠な特色と見られており、芭蕉の俳句も例外ではありません。

もう一方の極端な例は、日本人翻訳者に顕著です。おそらくは漢詩の影響でしょうか、結果的に二十五音節以上もある四行形式になってしまうことがあり、芭蕉自身の句であろうとその他の偉大な俳人の句であろうと、日本語の俳句のもう一つの重要な特徴である独特な簡潔さを完全に殺してしまうのです。

俳句の重要な特徴は、そのリズム(韻律)と音節構造とは別に、縦に続く言葉の配列にもあります。特に、第一行と第三行、つまり最初と最後の五音節の配列が重要です。

これがどれほど重要であるかは、(俳諧)連歌によって示されるでしょう。連歌の作成に関しては、芭蕉自身が非常に高名な連歌師でした。

異なる俳人が新しい俳句を詠むのですが、これは、先行する俳句にすぐに続くものでなければなりません。そのような過程の中で俳句は、連歌全体の連続を延長し、単に消え去るのではなく、続く俳句のための足場を提供するのです。

ここで、日本語を知らない英語圏の人びとやローマ字化した横書き版に依存している人なら誰もが(日本人も含めて)何らかの混乱に巻き込まれてしまう原因があります。それは、俳句の原文が縦書きの一行で正式に記述されるとき、俳句の重要な5-7-5の三部構造に関して、三つの部分の切れ目を示す方式も、いかなる句読点もないということです。

それ故、非常に難しいことであるのはわかってはいますが、日本語の原文の順序を維持するために、あらゆる努力が払われねばなりません。

しかしながら、そういう問題を忘れたり無視したりすることがあまりにも容易に起こり得ます。その結果、翻訳中に俳句の最初の行と最後の行がいとも簡単に入れ替わってしまうということが非常に頻繁に起こるのです。

あの山吹の句の場合のように、最初の二行の置き換えを避けがたいときでも、上述したような変化がどんな違いをもたらすかは、容易に示すことができます。

本来は、予期もしない、眼を見張らせるような、クライマックス(絶頂)への突然の移行だった俳句が、力強い始まりから転落して、美しいとしても脆弱な終わり方へと、かぼそい漸次弱奏へと下降するだけになっています。もともとは、

ほろほろと
山吹ちるや
滝の音


であった俳句が

滝の音
山吹ちるや
ほろほろと


に変わってしまうのです。

ここではリズム(韻律)や音節数に何の変化もないのですが、ただ行の順番という平凡な問題に見えるものによって引き起こされる、このような強調点の微妙な差異と変化が、すべての翻訳者が直面せざるを得ない問題となるのです。

もっと大事なことは、仏教的な眼で見れば、このような俳句でさえも、一切の有の一如と無常を反映しています。芭蕉はまことの仏教徒でした。

ここでまた触れておくべきこととして、たくさんの仏教寺院があるにもかかわらず、大きな城郭の蔭にあった小さな町、伊賀上野の下級武士の家に生れた芭蕉の出生は、彼をどう見るかといった問題に多少の混乱をきたしたようです。

実際、神道的環境な中で育った芭蕉のの生い立ちは、自然界との深い関わりを持つのに大きな役割を果たしたかも知れませんし、特に仏教徒として彼が自らの立場を確立するのをたすけたかも知れません。

ものごとを区別してきれいに別々な範疇に分類しようとするのは、私たちが生来持っている傾向です。このため、佛教の最初の伝来以降何世紀にもわたって、この二つの宗教が平和に共存していたということ、さらに芭蕉の時代でもまだ、神道にはすべてを傘下に治めるような統一的な組織がなかったので、田舎の小さな神社の多くが実際は地方の佛教僧によって維持経営されていたという事実を、私たちはいとも簡単に忘れ去っています。

芭蕉はそのさまざまな旅の間に、仏教寺院と同じくらいたくさんの神社に参詣していますが、神道への言及は、樹木や岩石や山々に宿っている神々への四、五回に限られています。

神が留守の間に荒れ果てた神社に言及しているところから、内容が明らかに神道的で、非常に感動的な俳句があります。

留主のまに
あれたる神の
落葉哉


これと同様に、もう少しだけ多くの佛教や佛教的信仰へ触れた句が、わずかながらも見られます。そういった佛教の句は、はるかに独特なものではありますが。

僧朝顔
幾死かえる
法の松


十八音節になっているこの特別な俳句は、芭蕉の佛教観の基盤に直接光りを当てており、他の多くの場合と同様に見事に圧縮されたもので、それ自体がほとんど公案のようになっています。

僧と朝顔、人と花の間に、区別はありません。それらは一つです。

その上、最後の行から、芭蕉自身がある有名な禅公案とそこに含まれている答えに親しかったことがわかります。それは、ある僧が真剣に佛教の根本原理を尋ねて「いかなるか、これ祖師西来の意」と問うたときに与えられた答えです。

芭蕉にとっては、魚の中で最も小さな取るに足らぬものでさえ、一切衆生を救済したいという阿弥陀仏の本願に含まれるものでした。

白魚や
黒き目を明ク
法の網


その上、浄土真宗の信行に対する芭蕉自身の態度は、

世にさかる
花にも念佛
申しけり


という句に示されています。

「発句」から「俳句」へと移行するまでの十七世紀日本の詩的伝統の長さと強さは、それより五世紀も前に偉大な禅匠道元が書いた三十一文字の「短歌」、「和歌」によってよく示されています。道元禅師は自らを詩人とは考えず、その詩は彼の詩作のために書かれたのではありませんでした。これが書かれたのは、彼の導師ないし教師としてはたらきの一部だったのです。

この和歌は、本当に奇妙なことですが、俳句の方に戻るとき、どれほど注意深く俳句を読まねばならないか、その完璧な見本となるものでもあります。

実際には日本語で4-7-5-8-7の音節になっている、もとの和歌はこれです。

守るとも
思わずながら
小山田の
いたずらならぬ
かかしなりけり


私たちと私たちの模造である案山子が一つであるということ、そして自分の行為の結末がどうなるかを私たちは予言できないということ、結果としてやったぞと満足を感じるということ、そういう意味を読み取るのは比較的簡単なことでしょう。

それでは、遠しとも遠しです!

一切の有の一如において、田圃と小山はどうでしょう。

縁起(すべては縁って起こっているということ)のネットワーク(網状組織)の中では、それらも有用であり、そして、それらにも気づきがありません。

縁起の構成要素のすべてが、そのネットワークの中で、実に大事な役割を演じている中で、自らの機能にまったく気づいていないというのは、縁起の本質に由来します。

まったくひたむきな佛教詩人の眼で見れば、世界はまったく別な場所へと変わります。

芭蕉がその普及と発展に非常に深く関わった「俳句」に戻るとすれば、彼の場合、何か小さな自然の出来事を観察するときでさえも、次の句に見られるように、深い仏教的信仰と理解を偲ばせます。

梢より
あだに落けり
蝉のから


「蝉のから」の空は、最も重要な仏教的概念を三つ含んでいます。永遠な固有の自己というものは無いという考え、一切の存在は多くの因と果の帰結であるという縁起の思想、最後は、すべての被造物の無常の概念であります。

禅ガーデンの場合のように、素敵な俳句は、いったん知ることになったら、常にそこに帰り続けたいものになるに違いありません。

芭蕉が、江戸のはずれに住んでいて、佛頂禅師の下で深い禅定を実践し、言葉や意識を超えることに集中していた1677年に詠んだ句に、寂かにして深遠な佛教的味わいを含むものがあります。それは、初見ではまごつくほど率直な表現形式で書かれたものですが、非常に豊かな含蓄を湛えています。

たびねして
我句をしれや
秋の風


最初の二行の十二音節で、芭蕉は、散文の中に詩に該当するものはないということ、つまり詩そのもの以外で詩は語りえないということを表しています。これは、いとも簡単に忘却されるそういう事実についての、彼の鋭い気づきを露しています。

本物の俳句にいたる論理的道はありません。本物の俳句に到達できるのは、ただ眠りの内においてだけ。深い下意識に沈んで言葉や意識的想念の領域を超えてこそ、そこに到達できるのです。

最後の五音節で、芭蕉はまた、すべての俳人と彼らの句が住処とする佛教の無常観を、暮れ行く年を吹き飛ばす秋風に縮約しています。

彼は詩人であって、説教者ではありません。最後の二つの句が示すように、彼には自らの信仰をもっと解り易い言葉で説明する必要はなかったのです。

佛教は、芭蕉が呼吸した空気そのものであり、彼のすべての著作はこの事実を表現しています。

けれども、それぞれに親密な門人を持つ無数の宗派がある世界において、芭蕉がその佛教理解において完全に宗派を超えていたという事実は、時には何とも説明しがたい不確かさをももたらし、議論の的になってきました。

善光寺についての最後の俳句で、芭蕉の立場は、まったく明らかです。

月影や
四門四宗も
只一ツ

Talks at Shogyoji

by John White

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