1993
最初の正行寺講演
1994
第九回ロンドン会座講話
1995
禅ガーデンの創造
1997
正行寺の未来について
1997
三輪精舎石庭
1998
教育について
1999
初期仏教と現代科学
2000
出会いの三輪精舎
2001
現実の出会いについて
2002
無執着について
2003
空について
2004
禅と庭園の創造
2005
逆説について
2006
阿弥陀仏の 第十八の本願から 生ずるもろもろの反省
2008
現代科学と根本的仏教思想
2009
正行寺と佛教と言語
2010
飛石と公案
2011
佛教とバガヴァド ギーター
2012
正行寺の将来について
2013
浄土真宗とプロテスタントにおける信仰による義認
2014
禅ガーデン
2015
すべての有と無の一如
2016
迷想について
2017
一如と逆説と芸術
2018
仏教と逆説と実在
2019
芭蕉について
2020
仏教と俳句
2021
阿弥陀佛と超越と他者性
迷想について
『金剛経』に記録されているような、釈迦牟尼佛のたび重なる所説、つまり「法」という究極的実在についての論は、「了解できないし、表現もできない」、その本質は「理解できないし、理解できるようにもなし得ない」という点に、「迷想」についてお話しする際の私の原点があります。
他の多くの経典でもこのような言葉は繰り返し出てきますが、これは哲学者が論ずるところの対象というばかりでなく、どちらかといえば、科学的に見てなお一層大事なものであります。
いかなる努力をしようとも、私たちは自分の主観性を逃れられませんし、本当に自分自身の外にでることはできません。
私たちは、原子で成り立っています。原子で成り立っている私たちは、その原子自体の所産であるものを証明するためにも、また宇宙全体の構造を成り立たせているように見えるその構成要素(素粒子)を証明するためにも、原子そのものを使うしかないため、いかなる「究極的実在」の探求も終には失敗する運命にあります。
使われる論理の形式がどんなものであろうとも、その論理は、当然のことながら、人間の作ったものであります。あるいは、厳密な言い方をすれば、動物の作ったものであります。そして、それに由来するあらゆる制限を伴います。
あらゆる種の創造性と理解力の躍進という見せかけ上の奇跡は、日々その領域と精度を急上昇させながら殺到してきます。そのため、早かれ遅かれ、科学はその本性から終には越え難い壁に衝突することになるでしょう。
その上、果てしない数の理論や思想構成があるのです。それらは証明もできなければ反証もできず、言語的にいっても、数学的にいっても、最も純粋な形の「迷想」と逆説の領域であります。
言語学的好例の一つは、「この命題は偽である」という、一見簡単そうにも思える断定です。もしそれが真であればその断定は偽でありますし、もしそれが偽であればその断定は真であるということになります。純粋数学の領域には、その他にも類似の逆説が数々あります。
1931年から数年の間ですでに、クルト・ゲーデルは他の数名と共同して、一連の基本的な数学的公理はすべて、それ自体が真実であると証明するためには決して使い得ないことを証明しました。
さらには、いかなる科学者も哲学者も、数学やその他の論理の使用、あるいは模型(モデル)の創造、あるいはもっと複雑な等式(イクエイジョン)の使用などによって、宇宙や宇宙のもとである物質がなぜ最初に生まれたのかを私たちに説明することはできないのです。
この点において、古代佛教徒と現代科学者は一致しています。やがて解ってくるように、それは、浄土真宗第一祖の龍樹が完全に精通している世界なのです。
申し上げるまでもないことですが、私は、私が今までに色んなかたちで言ってきたことや言おうとしてきたことを反復し始めております。しかしこれは、単なる忘却でも、高齢による物忘れの徴候の始まりでもありません。
根本佛教と思われるものの他の四側面-「空」「縁起」「無常」「すべての有と無の一如」-を最善を尽くして論じたときにも、「迷想」というテーマに関してはしばしばついでにしか話してきませんでした。しかし、それらの四側面と同様に、たとえほんのわずかな間でも、「迷想」を中心に話すことが許されるならば、反復という面が出てしまわざるをえないものの、非常に啓発的なことになると思われます。
私たちは生来、心の中で物事を区分します。そうした傾向によって、「迷想」というものは普通、否定的なもの、望ましくないものの範疇にそのまま入ってしまいます。
例えば、オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリーにおいては、その「迷想」という言葉の連続的な定義として、まず第一に「感覚的経験についての誤った知覚や誤った認識の実例」、第二に「誤解を招くような外観や印象」、最後に「間違った思想や信念」が挙げられています。
しかしながら、本当に奇妙なことに、もし私たちが個々の事例に当たって、日常生活の全ての誤った信念の中で最もありふれているものの一つ、物であろうと思想であろうと、部分を全体として見る誤謬を考えてみると、「迷想」というのは決して一方的な事態ではないということが、すぐさま明らかになることでしょう。
私たちの認識している物が全体としては、見えているところと同じではないことを、忘れていたり理解できないでいる場合を想定しましょう。しばしば話題にしてきたように、普通に実在と呼んでいる物を、「固いテーブル・トップ」といった観点からのみ見るのであれば、厳密な意味でそれは、部分を全体と取り違えているという意味での「迷想」であります。
動物として生きる私たちに進化の歴史が与えた知覚機構は、その「テーブル・トップ」を実際に成り立たせている分子や原子を認識させるようには構成されていません。なぜなら、原子や分子の認識は、生死をかけた生存競争において、意図してできたのではなく、およそ三十五億年もの間偶然な突然変異に依存してできてきた人体組織において、決してその要因ではなかったからです。
そういう問題はありますが、そうした日常的な数々の「迷想」が、進化の歴史によってもたらされた私たちの住処であるこの世界に生き残るために、絶対的に必要なものであるということは、やはり事実であります。
私たちの身体に備わった感覚の領域を超えて、比較的新しく発展し急速に増加しつつある能力によって、その進化の歴史は将来大きく変化していくのでしょう。しかし、どれくらいのもので、どのようなかたちであるかについては、全く申し上げられません。
一方で、その将来において私たちのもって生まれた知覚装置が弱まっていくのか、あるいはむしろその知覚装置の範囲と感度を意図的に成長させることになるのか、その点に関しては現状として非常に謙虚に対処していかねばなりません。
私たち人間は、二本足で歩き、かなりの大きさであるのみならず、大体が雑食性哺乳類です。そうした人間の進化と食習慣によって、狩猟採集生活者であれ、農耕民であれ、私たちには極度に鋭敏な視力を発達させる必要がなくなりました。私たちは、完全に眼に優位性のある種になったものの、高所を飛んで腐食を取る清掃鳥(訳者注-例えば禿鷹)や猛禽に特徴的な、私たちには全く見えないものが常に見えているというような視力は不要になったのです。
そのうえ、蜂類のような昆虫とは異なって、私たちは花蜜や花粉を食すことも全くありません。それゆえに、受粉者を惹き付けるために花を付ける植物が発達させた紫外線領域の色と型に対応できるように、私たちの視覚領域をそのような特別なスペクトル領域―紫外線領域―を捉えるところまで発展させる必要はありませんでした。
結果として、私たちは、表示されているものの一部を見るだけになりました。そして、私たちにとっては純粋に白とか純粋に赤とか、同様な色にしか見えないたくさんの花びらを見て嘆賞するという「迷想」をもつことになるのです。
また、その等級表において紫外線とは真反対の端にある赤外線の領域でも、ある種のカブトムシは、森林火災の残り熱を検出するために特別な器官をもっています。そのカブトムシは、卵を産みつけるため、遥か彼方からでも赤外線領域を知覚できるのです。私たち人間はそれを感じ取ることができるようにはなりませんでしたし、とりわけ真っ暗闇の中でも餌食の存在と場所を検出できる非常に効果的な熱センサーを発達させてきた多くの蛇類のようになることもありませんでした。
私たちの体に残っている毛の現状は、その大部分が全くの無感覚です。餌食の非常に小さな動きで起こる環境のわずかな乱れをも認識できるタランチュラのような蜘蛛の足の毛とは全く違います。最近発見された蝙蝠の場合のように、その両翼の毛が風の速度や方向のほんのわずかな変化にも反応して、コントロールの中断や喪失の危険なしに、驚くべき速さで回転することができるというのとも大違いです。
唯一の例外は、私たちの内耳内の聴覚毛です。それでも、多くの蝙蝠の耳の毛と比べれば、本当に弱いものです。蝙蝠の耳の毛は、暗闇での飛行や捕食に使われる反響定位システム(訳者注―エコロケーション・システム 蝙蝠や海豚が音波によってものの所在を感知するシステム)のために、人間の何千倍とはいかなくても、何百倍も感受性が強く、非常に高度な発達を遂げています。蜘蛛の巣の柔らかな糸の反響さえも感知できるほどなのです。
私たち人間は現在、水生ではありませんし、進化の歴史のどの時点でも水生だったことはありません。そのため、水に適応したあとに鯨や海豚に発達したような類似の音響探知システムを発展させたこともないのです。
同じ理由で、私たちは、周囲の電磁場に敏感ではありません。エイのような魚類や、広々とした大洋に生きる鮫、世界の多くの大河で光線の通らない泥水の奥深くに棲息する大小の鯰などは、電磁場に非常に敏感なのですが。
私たちの嗅覚の感度は、犬の嗅覚に比べて、千倍から十万倍も低いのです。それが何を意味するかは、犬を散歩に連れて行くだけで充分に理解できます。麻薬犬やブラッドハウンドは言うまでもなく、飼い犬は全て、私たちの知らない世界に住んでいるのです。
私たちが自らの限られた感覚器官で認識し得る全てのものが、私が概説しようとした意味で、「迷想」であるのは事実です。その結果、私たちの住む「迷想」の世界は、様々な形で私たちにとって美しく見えるばかりでなく、特殊な種の動物である私たちの要望に完全に適応しているのです。
事実私たちは感覚に関して「何でも屋」であります。例えば、嗅覚や聴覚のような感覚の一つ二つが、他の多くの大小の哺乳動物の場合と同じように極めて高度に発達しているとするなら、それはただ損害を齎す過負荷に終わるだけです。余りにも大きな過負荷であるため、体全体の嵩と比較して異常に大きくかつエネルギー鯨飲家である私たちの頭脳でさえ、ほとんど対処することができなくなるでしょう。
結果として生ずる感覚領域全般の「迷想」は、私たちが生存のために支払う代償です。
例えば、犬の尋常ならぬ嗅覚は、人間の場合と比べて四十倍の脳をその唯一の目的に向けることでのみ達成しうるものなのです。
すなわち、現代科学によって明らかになってきていることは、「迷想」にあるもう一つの側面です。「迷想」に数え切れないほどの有害な影響があることは明瞭であり、その極端なかたちは多くの種の精神病に起こる妄想として現れます。それによって精神病患者は多かれ少なかれ、彼らの生きている世界に対処できなくなっていますが、それは決して片面だけのコインではなく、そこにはもう一つの面があります。
生きとし生ける他の有機体に勝るように見える私たちの唯一の領域が、私たちの感覚器官の様々な限界を遥かに凌駕する、高度に発達した全体的な知性の進化であるというのは、偶然の一致ではありません。
頭脳の中において言語の発達や推理や抽象的思考等々を掌る知性的方面に、有効なエネルギー資源の非常に大きな割合が注がれることを可能にしてきたのは、それら感覚器官の限界そのもの、そこに限界というものがあればこそであります。それが全てとはいえませんが、そのおかげで私たちは今のところ生き残ることができています。それだけでなく、天文学的なとまではいかないまでも、無数な虫類と無数な単細胞バクテリアとに支えられて、私たちの知りうる限り、地球上ばかりでなく、この特殊な太陽系において、最も有力な多細胞種となることができているのです。
こういったことから、特に西洋においては何世紀にもわたって、私たちが他のいかなる動物とも全く異なったものであるという「迷想」に導かれていったのは、不幸なことでした。他の動物は、そのような知力をもたず、それ故にあれやこれやの刺激に対して直接的に反応する元来の本能によってのみ行動すると信じられていました。
こういう考え方は、過去二千年余の間、‘不死の魂’の所有を信ずるキリスト教信仰によって、非常に強化されました。この考え方は、ヒンズー教の‘永遠の自己’にも当たります。しかしながら、キリスト教の場合には、それは他のいかなる有機体とも共有のものではありませんでした。
「全ての有の一如」という仏教古来の概念において、全てのいのちは連続体としてあり、別個な分離体の集合ではありません。科学者たちがそう自覚し始めたのは、かなり最近のことです。それにもかかわらず、道具を作るというのは人間だけの特徴だと考え続けていました。
人類が唯一の知性保持者であるということに関しては、これはもう引きつける力を失い始めている一つの「迷想」です。驚くには当たりませんが、科学者たちが最初に注目したのは仲間の霊長類でした。その結果として、彼らが木の実を割るのに石を道具として使うこと、二重の殻のある木の実の場合は、実そのものを壊さないように等級をつけた連続的打撃を学ぶこと、また木の幹の穴にいる幼虫を突き刺すには棒を使うことなどを発見したのです。
後に、南西太平洋ニューカレドニア島の烏は、同様な目的をもってかぎを作るために適切な小枝を正しい大きさに切り取るばかりでなく、特にいいものは将来の使用のために持ち去るときもあること、折にふれて欲しいものを得るために二つ、三つの道具を次々に使うことがわかりました。また、世界中の鳥類の中でそのいくつかは、非常に小さいにもかかわらず、幼虫を捕まえるためにより簡単な真直ぐな枝を使うこともわかっています。
もっと驚くべきことには、オックスフォードで生け捕りになった烏が、試行錯誤するための見本も手本もないのに、垂直なガラス管の底から食物を取り出そうと、一本の真直ぐな針金からかぎを作り出したのです。
沢山の実例の中から取り出す最後の例は、その問題処理能力のために直ちに伝説的とでもいうべき地位を獲得した蛸の話です。
二匹の蛸が、間に硝子の仕切り板のある別々の部屋に入れられました。そのうちの一匹には食べ物の入っている大きな硝子の壷が与えられるのですが、その間にはいくつかの閂やその他の開閉装置があります。すると、蛸はただちに働き始め、試行錯誤の結果,終には問題を解決して、その報償に預かるのです。
とかくする間、もう一匹の蛸は、その全ての動きを注意深く観察し記憶して、同様の壷が与えられると、全く同じ過程を繰り返します。そしてほとんど何の問題もなくその部屋に入って、食物にありつくのです。
知性というのはいのちの木をどこまで下っていくものなのか、また知性はどれほど発展しているものなのか。その語の定義によるところもいくぶんありますが、私たちだけが知性を有しているわけでないのは、既に明瞭です。
私たちを私たちたらしめている遺伝情報の三十億ほどの塩基対は、「レター」であるともいえます。科学者が、新たにこれらを読み取ることができるようになり、全てのいのちは本当に一つであるということが結論づけられ、証明されました。「いのち」というのは、私たち自身から哺乳類の全領域を経て、虫類やバクテリア、そしてまた植物に至るまで、裂け目なく広がる一連続体の部分です。植物は、動き回ることができないため、以前は無視される存在でした。
私たちは実に、99パーセントの遺伝情報をチンパンジーと共有しており、鶏とは60パーセントほどを共有しています。本当のことだとは思えないかも知れませんが、ショウジョウバエとも同程度を共有しているのです。あらゆる段階のありとあらゆる生物は、それぞれが「縁起」によるもので、一大家族の一部なのです。
以前お話ししたように、私たちは、誰も単一の個体ではなく、私たちの存在そのものは、自らの体にある細胞の十倍もの数の細菌をその内外に生かしています。そうした事実に基づく生態系であるばかりでなく、私たちの内臓にあって、消化不能な物質を分解し、使用可能な食物に転ずる無数の共存種がいなければ、私たちが雑食動物として長く生き続けることはできないはずです。
頭脳のさまざまな潜在意識段階を経過した後、意識的段階に現れて「自己」という観念を造る感覚経路の多様性は、「自己」の観念が複雑な網状態として進行中の「縁起」の結果であるということ、それ故にそれは長期的に見れば「無常」であるし、短期的には絶えざる変化にさらされていることを直ちに指し示します。
縁起から生ずる他の全ての現象と同様に、「自己」は、単独な永遠の存在でありませんし、そういうものではあり得ないのです。
以前力説申しましたように、そのような「自己」の実存というか、自己が単独な存在であるという観念は、『金剛経』に報告されているように、釈迦牟尼佛によって強烈な言葉で攻撃されています。
『華厳経』の膨大な領域においても、「体無我」という事実に関連した数限りない章句があります。衆生教化に関する何百ページの話の途中には、「自己の観念そのものがなくなるのである限り、自己愛はないし、ましてや物質への愛着もあり得ない」と言われていますし(704頁)、ある特別な偈文の最初の句では、非常に力強く
「佛と世間衆生の体は 全て自己がない(無我)のである」(527頁)
と述べられています。
そのような無我のテーマは、「私のもの」とか「私がしている」とかいった観念の虚偽性と共に、パーリ聖典の『サムユッタニカーヤ』、つまり『阿含経相応部』の最初の四部、およそ千二百頁にわたっても、常套句となっています。そこには、しばしば誤解されて来た遊行僧ヴァチャゴッタ(婆差種)との会見が語られていますが、その遊行僧との会見の後、釈迦牟尼佛は付き添いの阿難に対して、「全ての現象は無我である(諸法無我)」という新しく生じた知に対する引続いての責任を確認しておられます。
例えば、執着の望ましくないことを論じている箇所で、
「比丘よ、執着とは何か。四種の執着(四取)がある、すなわち 官能的喜びへの執着(欲取)、見解への執着(見取)、規則や誓への執着(戒禁取)、自己という説への執着(我語取)である。これを執着という。」(382頁)
とあります。
そして、また別な箇所では、
「丁度、部分の集合として、車という言葉が使われているように、集合体が現じている時に『存在(有)』というしきたりがある。」(137頁)
と言われています。
「私のもの」だとか「私が作っている」といった概念に関連してのよい例は、
「『これは私のものではない』、『これは私ではない』、『これは私の自己ではない』と正しい知恵を以て、ありのままにすべての意識を見れば、人は無執着によって解放される。 羅睺羅よ、次に意識を持つこの体についてとあらゆる外的表示について、これを知りこれを見るならば、私が作っているとか私のものを作っているとか、そういう慢心から免れて、差別を超え、安らかになり、よく開放される」(521頁)
とあります。
差別や区別というのは、『金剛経』で想い出させてもらえるように、伝承のごとく釈迦牟尼佛にとっては禁物です。
このような意見は、「縁起」についての、つまり、あらゆる現象の「空」と自己の非存在についての、それゆえ勿論無我についての、ナーガルジュナ(龍樹)の根本的な哲学的論文、『ムーラマディヤマカ・カーリカー』、すなわち『根本中頌』において、力強く補足されています。
ナーガルジュナの偈文は非常に簡潔、その思想は非常に複雑、そして論理的次第は非常に難解なので、こういう偈頌の形をとったインドのその他の多くの論にも見られるように、いつも「解釋」というかたちをとり、長々と解明する必要がありました。
自己(我)関して、ナーガルジュナは彼の結論を簡単に纏めました。
「自己が存在しないなら、どこに自己に属するものがあろうか。 自己と自己に属するものの滅の故に、私のものも私もない。」(第18章 第2節。)
恒久的な単独の自己というものがあるという「迷想」と密接に結びついたかたちで、「今」というようなものはないという理解があります。
よく言われることですが、智明さまと同様に私自身も、「取り返しのつかないかたちで過ぎ去ってしまった過去は、存在しえない。かりに存在しているとすれば、最早それは過去でない。また、まだ存在していない未来は知り得ない。だから、現実にある唯一のもの、現在、今に私たちは集中しなければならない」と、しばしば申し上げてきました。
しかしながら、ナーガルジュナがさまざまなかたちで言及しているように、現在もまた「迷想」であります。現在は、過去と未来の如く、持続的な単一の存在ではありません。そういうことを最も端的に述べたのは、ナーガルジュナについて最も重要な註釈を施したチャンドラキールティ(月称)でした。
哲学的にいえば、「今」は、単に過去と未来の間の無次元の非持続的移行であって、存在しないのです。なぜなら、最短時間の持続さえも持ち得ないものは、存在するとはいえないからです。事実、ナーガルジュナ自身やチャンドラキールティにとって、時間全体が実際的かつ日常的に、信じ難いほど有用であったとしても、それは自己と同じくただ単に、迷想的概念に過ぎないのです。
それ以上に、それは私たちの感覚器官から見ても一つの「迷想」であって、私たちの頭脳が私たちの意識に何とか「今」が実在すると確信させるというのは、実に驚嘆すべきことです。
私たちの今の観念は、実際には、過去に基づくひとつの「迷想」でしかないし、千分の一秒単位でする近未来の予測に過ぎないようです。そして、そういう今の観念があればこそ、私たちは、車を運転したり、走ったり飛んだり、試合をしたりといった日常的なことができるようになるのです。
一例を取り上げるならば、野球のボールが曲線を描きながら時速百六十キロで投げられると、ボールが数フィートを移動する間に、頭脳は見たことを整理しながら、驚くべきことに、千分の何秒かでそのボールがどこに来るかを割り出します。
つまり、頭脳は眼の報告に基づいて予測をするのですが、ボールは僅か0.4秒ほどしか空中にないのですから、メジャーリーグの最高のプロ野球選手でもクリーン・ヒットを打つのが極めて難しいというのは、驚くにあたりません。
そういうことではあっても、この迷想的な「今」の創造ということを通して解るのは、私たちの生活のあらゆる局面において、今という観念の存在が私たち人間の存続に極めて大切であるということです。そして、非常に沢山の種類の動物や昆虫が同様なことを私たちよりも遥か立派にやってのけるということを考えると、謙虚にならざるを得ません。
アインシュタインの時空の概念に入っている時間は、もはや絶対的な時間ではありません。それは、観察者と観察対象双方の位置と運動に依存する全く相対的な量と見なされています。そういうことを思い出せば、興がそそられます。
私たちにとって、この全ての基盤となっているのは、「意識」です。つまり「環境を識ってそれに反応する能力」であり、恐らくもっと明確には「こころが自らと世界を識っているという事実」です。
上記文章は二つとも、オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリーからの引用したものです。「意識」という言葉は、最初の場合は暗示的に、「自己」という観念を伴う、人間だけに見られる属性を指し示しています。しかし、第二番目の場合は明瞭に、つまり、最近の研究をいささか取り入れてその定義を広げ、同じく「自己」という観念を伴うけれども、主として人間に見られる属性を指し示しています。
いずれの場合も、意識においては「識」が基盤であり、この「識」はより深いレヴェルにあります。「識」には、少なくとも、バクテリアやその他の単細胞有機物といった、非常に低いところに住する人間以外の有機的生命とも共通するところがいくらかは見受けられ、自己の観念を伴う必要はありません。
私たち人間においてさえ、どんなかたちの自己の観念も、生まれつきそなわるものではありません。いのちが始まって二年目に、やっと発達し始めるのです。
その発達と共に、私たち人間という特殊な種には、飽くことなき要求と欲望が出てきます。自分をただの平凡な生物学的存在以上のものにしようとして、「迷想」の上に「迷想」を重ね、自分を飾り立て刺青までもして、説明できないものを説明し、生と死を何とか受け入れるために、次から次へと宗教を作ってきました。
深い洞窟の一番奥まった暗い隅の壁に、狩猟した動物や同居していた動物を信じられぬほど活き活きと描いた数万年もの昔から、私たち人間という種は、自分の生きている世界を理解し支配し装飾するために、「迷想」の世界を拡大してきました。
具象であれ抽象であれ、あらゆる他の視覚芸術と共に、常に成長し続けてきたあらゆる種の絵画や彫刻において、「迷想」という要素は、多かれ少なかれ、その役割を果たしてきました。
前世紀のことでしたか、そこに映画という芸術が加わりました。そして、数百年どころか数千年もの連続的発達の歴史を持つ生きた舞台芸術の人気と有効性を、そして舞台芸術のあれやこれやの「迷想」への完全な依存性までをも、大きく出し抜いてしまったのです。
次には、劇場でなく、家庭にテレビジョンが入って来て、そこでは、劇場におけると同じく、「迷想」が屋上に屋を重ね、強烈に非現実的な、かつてより一層現実的に見える、非現実的現実の世界を作り上げました。生きている人びとや俳優だけでなく、遠い昔に死んだ人達まで、舞台上の俳優の果てしない交代のような入れ替えの必要もなく、そこでは「生き」続けていくことになります。彼等の唯一の存在の場である映画フィルムやデジタル貯蔵装置が引続き保存される限りは。
それに伴う映画館から居間への移動は、町や田舎などへの動きの始まりに過ぎませんでした。そして、増加し続けるコンピュータの力や新しい工業製品と技術によって、この動きの勢いも煽られています。
たくさんの携帯電気製品によってすでに、インターネット全体へのアクセスができるようになりました。その時私たちがどこにいようとも、あらゆる映画やテレビ番組はいうまでもなく、世界中の図書館が所有するよりも大きな情報をポケットに入れて持ち歩けるようになったのです。
コンピュータは絶えず強くなり続けていますが、その助けを受けて、科学はさまざまな分野において「迷想」領域への大進出を果たし、それを打ち負かしています。しかしそれと同時に、別な分野では、その「迷想」領域を拡大してもいます。そこには、ナーガルジュナであれば「見解」と見なしたであろう、果てしなく激増する「理論」が含まれています。その「理論」は、多くの現代宇宙論者によって促進されているのですが、原則としては証明も反証も受けつけないという意味において、実際には全く非科学的なものであります。
それ故、現在優勢なのは「迷想」の縮小なのか拡大なのか、申し上げにくくなっているのです。
多くの国で、ますます複雑化するコンピュータ・ゲームによって、子ども達の生活ばかりでなく、大人の生活までもが、大きく支配されるようになりました。この模造現実の特殊な分野において、最近もっとも劇的に発展したものの中に、ヴァーチャル・リアリティという全くの迷想的世界があります。
人々が夢中になる余暇の娯楽として、これがいつまで続くのかは解りません。なぜなら、ヴァーチャル・リアリティの現実性があまりにも完璧すぎて、くつろぎや脱出を求めてゲームをする人たちが遠ざけようとしている人生の不可解な問題や不確実性を、それまで夢にも見たことのないこの「迷想」の世界へ持ち込んでしまうからです。そのために、現在の人気の何がしかを失うことになりかねないのです。
他方、模造現実の医学的、科学的、産業的利用が飛躍的に増加することは疑いようがありません。一つだけ例を挙げるならば、ヴァーチャル・リアリティはもうすでに、世界の主な航空会社のパイロットやその他の乗員の訓練にしばらくの間使われてきました。
しかし、「迷想」のもっと根本的な側面に帰って、私たちの感覚を通して得られるものは全て何らかのかたちで迷想であるという見解を取り、全てが迷想であるとするならば、迷想そのものもまた迷想でなければならなりません。それを思い出すことは大事です。そして、究極的実在ということに関しては、もしそんなものがあるとしても、それが一体何であるかということについて、私たちは何の考えも持ちませんし、持つこともできないのです。
これは、あらゆる現象の「空」と「縁起」に関するナーガルジュナの最終的立場と一致しています。つまり、「空」もまたそれ自体が「空」であります。「空」には、別な「見解」というか、形而上学的概念というか、教学というか、そういったものとして別な新しいかたちを取ることが許されてはならないということです。
そのむこうにあるものは、ナーガルジュナにとっても、慎重にしてそういう問題に意見を述べられなかった釈迦牟尼佛にとっても、不可知であります。これによって、私たちは丸々一周して、今夜の話の出だしの文章、『金剛経』の一節に戻るのです。
しかしながら、智明さまが最近、詩で終わらない講話は期待はずれだと仰ったことを受けて、「逆説的和歌」と名付けた詩で終わることにいたします。これによって、「迷想」についての私自身の思いを何とか総括してみたいと思います。
それは、このような詩です。
無執着の 愛においては 迷想を 充分に生き切ることが 私の夢見る 夢です 目覚めるということも ありません ただ涅槃だけ 終りだけ
それにもかかわらず、私は、こうした特別な場合における締めくくりの言葉は、真実の詩人であり、釈迦牟尼佛の偉大な哲学的門下であるナーガルジュナに任せたいと思います。
彼の「中道」に関する論の一番最後の偈文から引用します。「見解の考察」という章において、彼はその最後に、永続的自己の非存在ということを論じつつ、それをいつもの全てを包括する簡潔さと正確さをもって纏めます。
「全ての見解の捨のために、お慈悲に基づいて、 真実の法を教えて下さったゴータマ(仏陀)に、私は帰依します」と。
Talks at Shogyoji
by John White