逆説について

この講話は、仏教の歴史、さらにはすべての宗教の歴史の中心にある逆説や神秘性だけでなく、日常生活や人類の歴史全体における逆説にも関係しています。

私は私の人生において幾多の間違いを犯してきましたが、その最後の間違いというのは「逆説について」という今日の話をすることだといわねばならないかもしれません。因みに「逆説」という言葉は、コンサイス・オックスフォード・ディクショナリーによれば、「不合理に見えるけれども、おそらく本当は充分な根拠のある説。自己矛盾的な、本質的に馬鹿げた説。合理的な可能なことについて先入見と戦っている人や物」ということになっています。

間違いだというのは、私が年来この正行寺でしてきたすべての話は実のところ何らかの形の逆説についてでありまして、しかも反復というものは打破しがたい悪習であるからです。

しかも、それは逆説的に、人生に対処し生きながらえていかねばならないという私たちのニーズは、私たちがあれとこれとを分けて区別するということに依存する生物学的心理学的気質を結果として作ってきたという事実、つまり存在するもの一切の絶対的一体性という仏教の主張とは全く矛盾して私たちが私たちの知識を区分化してきたという事実の適切な実例でもあります。これについても私は以前にお話ししたことがあります。

そういうことでありますので、あなた方に最悪の事態を覚悟して頂くために、私は導入的な詩を書きました。それはこうです。

これは言葉の
及ばない事柄についての
話です

公案についての
言葉の矛盾についての

水のない
海を
絶えず前進する
波についての

すべての思いの
忘却を思う
思想についての

存在と
非-存在についての
自己ならざる
自己についての

妄想を看取する
妄想についての

始めもなければ
終りもない
一道を見出すために
後ろを向くということについての

悟りについての話です


悟りが何であろうとも、確かにそれは最初から無執着に基づいており、自己と非-自己の二元とそこから流出する一切の超越を含んでいます。

しかし、絶対的一の概念は、自らのうちに仏教的な意味での空の概念を含んでいます。

絶対的一と空のこの二つは不可分であって、どちらが先でも違いはありません。

お互いに意思の疎通を計ろうとするとき、私たちは主として言葉に戻らざるを得ませんから、私たちはどんな言葉を使うか、またそれをどのように使うかについて、極めて慎重でなければなりません。

たとえば、仏教徒が悟りに関してレアリティ(実在)という言葉を使う時、その言葉によって何を意味しているのかという問題が直ちに浮かび上がってきます。そしてその答えは空とか絶対的一でなければならないでしょう。こういう文脈でリアリティという言葉を使うことは、事態を複雑に混乱させるだけです。

悟りに関して無への到達を語ることは、これもまた間違いであるように私には思えます。なぜなら、無は二元の一極であって、何かに関連してあるだけで、ここでは道理上超越し全体と融合しまう己我に関していえるだけです。

仏教については確かに真実であるように、あらゆる宗教の中心には、あるいは少なくとも、ヒンズー教、キリスト教、イスラム教というような主要な宗教の中心には、根本的な逆説があります。

それらの宗教のいずれにおいても、完全な信仰を持って尊崇される神や神々の本性は直接的には知られないのであって、キリスト教の場合であれば、カソリック神学者のうちでは最も有名であり最も論理的である聖トーマス・アキナスは、彼の神の存在証明の最後のところで、なお信仰の飛躍が必要であると述べています。

仏教の場合でもキリスト教の場合でも同じように、釈迦牟尼佛やキリストの言行は、間に人を介して二次的、三次的に、あるいは何世紀にもわたる口承の成文化を通して、やっと私たちに伝わるのだということを忘れがちです。

仏教の中心にある経典は、釈迦牟尼佛の死後いろんな形で成長した宗教において、数百年後にインドの僧侶や信者によって書かれたものです。

大乗経典は、実にいろんな形で、仏教的であると同時にヒンズー教的でありまして、仏教の哲学的中核は明瞭に、一切がそこから起こりそこに帰っていく、絶対、無為(造られていない)、自在、永遠であるような宇宙の本質としてのヒンズー教のブラーフマ(梵)の概念から発展したもののように見えます。

諸経典に説かれているスクハヴァーティ、神秘的な極楽国土、浄土なる仏の世界は、同じ源から出てきているように見えますし、宮殿や宝物、金、銀、緑玉石、水晶、赤真珠、金剛石(ダイヤモンド)、珊瑚などの七宝で美しく見事に飾られた宝樹等々、ほとんどが、完全に物質的な言葉で叙述されています。それは、当時のインドの王子や大王の世界の香りがします。

最も叙述的なものについて真であることは、それ故に、言語的見地からして、諸経典中最も華麗な表現について真であることは、最も簡素なるものについても真であります。

仏教においては、いかなる種の利得も報酬も考えずに、行為のために行為することがその中心にあります。実際、私は、サトー・タイラが、ある三輪精舎の会座の冒頭の宗教的儀式の後、参詣者に対して参加することによって功徳を得るということはないのですよと楽しげに語っていたのをよく覚えています。

しかし、なかんずく存在と非存在、自己と非-自己の差別を廃止して、特質とか自己とか存在とか生き物とか人物とかの観念を持っている人は誰も、仏陀になる準備をしている人、菩薩とは呼ばれるべきでないと繰り返し宣言している『金剛経』でさえも、膨大な功徳の蓄積への言及に満ち満ちていて、その功徳の蓄積は、逆説的に、存在しないとも、功徳の無蓄積とも呼ばれているのです。

それにも拘らず、「良家の息子や娘」が-この表現自体がこの経典が書かれた当時のインド社会の香を伝える言葉ですが-幾億劫もの間日夜にわたって繰り返し自らのいのちを犠牲にすることによって、あるいは「幾千億世界の領域を七宝で満たし」それを「聖なる悟れる如来」に捧げることによって獲得する測り知れない功徳は、この法論から四句のみを取り出してそれを他の人々に充分に教え説明することによって得られる功徳に対しては無きに等しいでしょう。

しかし、是は勿論、この話の講題から多少うんざりと予想しておられるだろうように、もう一つの大きなパラドックスに導いて行きます。なぜなら、この同じ経典で、釈迦牟尼仏陀は、この法論そのものが「不可思議であり不可説である」と繰り返し述べておられるといわれているからです。

実際、『金剛経』の第二十四節において、仏陀の説かれたある偈文は、こういうものです。

仏陀は法によって知らるべし
なぜなら諸仏は法身をもつのだから

そして法性は理解され得ないし
理解されるようにも為しえない


ここでもまた、これは、すべての儀式的宗教的組織の外見的装いに隠れていますが、仏教の神秘的核心にのみ見られる逆説ではないのです。

西洋キリスト教の外観は、カトリックにおいて、その儀式は最も壮麗なものとして、不可謬な教義の規定や神魂等々の本性の正確な叙述は最も迫力あるものとして、体現されていまして、創造主としての神や魂(soul)というものが存在しない仏教とはかけ離れた世界のように見えるかもしれません。

しかし、カトリックのキリスト教においてさえも、教会組織の権威者達がしばしば容認しがたく思ってきたし、釈迦牟尼仏陀の言説の記録に一貫して主題となっているものと実質的には区別しがたいような、神秘的な思潮が流れているのです。

『金剛経』において、仏陀の法身の具現であり究極的な不可思議不可説の真理である「法」への言及を読むとき、私は一方で聖ヨハネの福音書の始めのところを思わざるを得ません。

「始めに言葉ありて、言葉は神とともにあり、言葉が神であった」。そして、他方では『無知の雲』、イギリス14世紀の匿名の僧侶でカルトゥジオ会修道士であった人の作品のことを思わざるを得ません。

この人からすれば、神性の直接的忘我的体験をするためには、自分を超えて自分と神の間にある無知の雲に入らねばなりません。

そうするためには、「あなた方は神の創造物と彼らの行為のすべてを忘れるために出来うる限りのことをしなければなりません」、あるいは別な言葉で言えば「あなた方はあなた方よりも低く、あなた方とかつて造られたすべてのものたち-彼らのすべての行為とすべての属性-の間に忘却の雲を置く必要があるでしょう」。

彼は続けて「しかし今あなた方は私に『どのようにして神自身を思うべきでしょうか、神とは何なのですか』と問われます。この問いに対して私が答えられるのは、『私は知りません。。。神自身については誰も考えることが出来ません。ですから私は考え得ることすべてを諦めたいと思います』ということだけです」と言います。これは、言うまでもなく、自己のすべての感覚情報を諦めるに加えて(考えることを諦める)という意味です。

もしも以上の文章において法を神と置き換えるならば、これらの文章は『金剛経』においてほとんど場違いには見えないでしょう。

こういう文脈に至れば、言葉の矛盾と不可解な回答を備える公案も遥かに不思議ならず見えます。というのは、公案というのは、禅宗においては、単に修行者をして散漫な思想と知的な思惟を超出させるための組織的な方法だからです。

隻手の声は両手の音の半分であると答えるのでは、とても間に合わないでしょう。

逆説は仏教哲学の領域と公案修行に限られたことではありません。逆接は私たちの日常生活のどこにでもありますし、私は大事なのは私たちが逆説に慣れてその言外の意味を理解することだと思います。

私自身のような不可知論者と、死後の世界を信ぜず、背後に遺す家族もなく、名声になんらの関心ももたない多くの人々が、それにも拘らず死後長らくしてやっと実を結ぶようなことをするのに法外な努力を惜しまないかもしれません。それは、実に逆説的であります。

そしてもしあなた方が「ああ、しかしそれは単に行為のための行為です」というとすれば、あなた方はその背後に隠れている逆説を忘れているのかもしれません。

実のところ私たちは絶対的な意味で行為のための行為は出来ません。私たちはただせめてもと試みることができるだけです。

私たちの行為には常に何らかの枠組(フレーム・ワーク)があって、どれほどその影響を免れることに成功しているように見えようとも、それが何らかの形で私たちの内外の隠されたというか間接的な動機となっているのです。

私たちが構築する見掛けは連続的な意識というか自己というもの、つまり私たちの現実存在を何か意味のあるものにしようとする架空の話、その基本的な非連続性を現代科学が確認しているように見えるのもまた逆説的です。

今日では、イラクにおける不当な先制的戦争を非難しその結果に苦しむ私たちが、人間の歴史を通してほとんどの場合、法の支配が拡大したのは、議論や民主的説得ではなく、力によって、戦争と侵略と征服によってであったという逆説を思い出さねばなりません。

客観的事実に関する古くからの心地よい確実性のすべてが、相対性と蓋然性の法則に内在する非確実性にとってかわられ、合理的科学的問の必要性と限界性の両方が明白な不確実性の世界においては、私たちが個人としても社会としても生き残り得るのは、理性と決然とした行為によってであるということは、実に逆説的であります。

そして今宵の最後に、もう一つの根本的逆説は、現代科学のあらゆる進歩にも拘らず、そして科学者や医者が私たちに私たちがどのように機能するものかをどれほど多く語っても、また私たちが彼らのいうことをどれほど良く理解しようとも、私たちは私たちの脳の働きを感じ取る自覚的意識を全く持たず、脳の働きは私たち自身に関する限り全くミステリー(神秘)に留まっているという知識であります。

次の詩は、実のところ、あなた方にはかなり風変わりな愛の詩だと思われるかもしれないことを主題にして、私が大分前に書いたものです。

私は今
常にそうであったように
もはや存在しなくなる時まで
そうであるように

愚かな人間です

私の思いの星雲が

旋回します

無限な
極微の空間で

一瞬にして
空から
生まれ
一瞬にして
無くなってしまいます

私が
思いを支配するのか
思いが私を支配するのか

どうして私が語り得ましょう

私の存在全体が

私にとっては

ブラック・ホールであり
そこからはどんな光も
逃げ出せないのです

他の人々には言えます
どのようにして私がこのペンを動かすのか
どのようにして私がこういう言葉を書くのか
働く筋肉
燃えるニューロン(神経細胞)
私にとっては

ありのままの私にとっては

私の心の
不可知なる
相互連結というべきものの内において

しかしもしも
それをしている私が
知り得ないのであれば

自分自身で

どのようにして私は指を挙げるのでしょうか
あるいは道を歩くために
どのようにして片足を
もう一つの足の前にだすのでしょうか

それよりもっと少なくしか
私には語りえません
私があなたを愛したのは
あなたが私を愛したのは
どうだったかということを

これまでの幾星霜


皆さま方すべてと同じように、私自身が、それが何を意味使用とも、歩きながら息をしている逆説です。私はかつてその逆説をそれ自由俳句の問に要約したことがあり、タイラがそれを『笛の息』に和訳しました。

私の住処である
この不思議な
ものは

私も
知らない
この私は
一体なんだろう

Talks at Shogyoji

by John White

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