すべての有と無の一如

私たちの日常生活、私たちの存続そのものは、区別することに大部分が基づいています。私たちは、これとあれを別け、夜と昼を別け、動物と鉱物を別け、犬と猫を別け、自己と非自己を別けます。私たちが理解し合うために発達させ、実際それによって考えている、様々な異なった言語はすべて、正しく区別するように作られています。

けれども、もし佛教の基本的原則を一つ挙げるとしたらと問われたら、愚鈍な私はこう答えるでしょう。

それは、この講話のタイトルである「すべての有と無の一如」ですと。

数年前のこと、佛教の周辺を漂いながら、わずかばかりの知識の中から、佛教の根本を成していると思われる基本的概念を5つ抽出してみました。

その5つというのは、「空」、「迷想」、「縁起(相互依存による生起)」、「無常」、それに「すべての有と無の一如」です。

それらは、人が生きていると見える世界へのアプローチに有効な方法であるように私には思われました。

これら5つの原則に対して、また、3つの理想を付け加えたいと思います。これらは、そのいのちを現実に生きるに際して助けとなるものです。

その3つとは、「出会い」と「無執着」と「行為のための行為」です。すべての理想のように、それらは本質的に不可得です。しかしどれほど惨めな失敗に出くわしても、出来るだけ実現させようとするというのは、人がそのいのちを生きようと努めるに当たっての善い方法であるように思われました。

私は無信心な人間であり、これら8つはすべて、それぞれ違った形での仮説に過ぎません。それは、浄土真宗の信仰が起こった趣旨を感知して、それを自分の周りの世界についての若干の知識と結び付けようとする試みに過ぎないのです。

しかしここにおいて私は、「すべての有の一如」を仮定した上で、既にいつもの如く、忙わしく区別をしているように表面上は見えています。まことに、釈迦牟尼佛陀が区別を忌み嫌い常に非難されたという『金剛経』の伝える事実にもかかわらず、私は、ここ正行寺において、それらの主題のほとんどすべてについて、実際には一つひとつ別々な話をしてきたと思います。

しかしながら、5つの仮定はすべて実際には所詮全く同一のものになるのであって、区別があるように見えるのは表面上のことに過ぎないように思えます。日常生活の営みに関わる三つの理想についても、同じことが言えます。

無知にもかかわらず、12年前に「空」についてお話しさせて頂いたのが最初になります。この時は、「空」というものが「佛教哲学の根底を成している」という下田教授の言葉の引用から始めさせて頂きました。

『心経』として一般に知られている『摩訶般若波羅蜜多心経』に、「空不異色、色不異空、色即是空、空即是色」とあります。

この一見かなり難しく見える文句と後続の諸句は、『金剛経』の中に再三出てくる釈迦牟尼佛の不断の主張からそのまままっすぐに出て来ています。菩薩は対象や対象の質を信ずべきでない(4章)とか、「自己、存在、生き物、人間というようないかなる観念」も持ってはならない(14章)という主張です。観念自体が本質的に区別から成り立っているということはもちろん言うまでもありません。

要約すれば、異なるものは何もない、つまり、「すべての有と無の一如」においてすべてが一つだということです。

自分自身というものに、つまり毎日毎日築き上げている独立した継続的自己という作り話というか迷想に、強く束縛されてしまっている私たちにとっては、自分自身などというものが存在しないという事実は、とりわけ呑み込みがたいものです。

しかし、既に18世紀半ば、デイヴィッド・ヒュームというスコットランドの哲学者は、自己の内に永続的な同一性は見出せない、あるのは単に一束の感覚であり、人間は、信じられない速度で次々に継起し、常に変化しつつある知覚の集合であると言っています。

その上、もし何ものも自己という明確な継続的個体を持たないとすれば、当然のこととして、何ものも明確な独立の起源は持ち得ないということになります。

そして、このようなことを議論し始めている今、私たちは当然のことながら、「すべての有と無の一如」という最も重要な概念に向かって再び滑走しています。

「空」というのは、私たちが、永続的な独立した自己というものは存在しない「迷想」の世界に生きているという自覚と切り離せませんし、それは、暗黙の了解として、「無常」ということと共に、「縁起」の結果としてでなければ何ものも生じ得ないという理解を、内に含んでいます。

私は1999年に「初期佛教と現代科学」について、9年後には「現代科学と根本的佛教思想」についてあなた方に話させて頂いています。ですから、いつも長々と我慢強く翻訳してくれているタイラにこの話のタイプ原稿を手渡した後ではあったのですが、評判のよい科学雑誌から、ある論文の最初の出だしの文章をこの講話に加えることにいたしました。それは

「あらゆる種の体系を理解するために、特に生態系を理解するために、現代科学において相互依存(縁起)以上に普及力のある概念を想像することは困難である。」


という言葉です。

これが何を意味するかを理解するためには、ほとんどすべてのスーパーマーケットや果物屋で売られていて今やありふれたものであるブラジルナッツが良い例となります。

巨大なアマゾンのブラジルナッツの樹は、50メートル位の高さになり、森林のすべての木のように、地下の菌糸体との共生関係に依存しています。この地下菌糸体というのは、木の根に付着して木の栄養にとって不可欠な部分を合成する、白色菌の繊維状細胞のネットワーク(網状組織)で出来ています。

しかしそれは複雑な縁起のネットワークの始まりに過ぎません。

その1個の木の実は、12個から25個位が入っている袋の一部であり、ココナッツのように外殻に包まれて非常に堅いので、アグチという大きな齧歯類ただ一種だけが、それを噛み割ることの出来る鋭く強い歯を持っているのです。

しかし、噛み割ることについに成功しても、アグチは一度にすべてのブラジルナッツを食べきれないので、将来食べるために大部分を森に持ち込み、木の葉の屑の下に埋めて、埋めた証拠を残さないように注意深く取り繕います。アグチは、そうすることによって、実際にアグチが取りに来ない木の実にとっては、発芽のための完全な場所を提供するのです。

あれやこれやで成されるそのような種まきは、熱帯雨林のほとんどの樹木の存続にとって、極めて重要なことであります。なぜなら、すべての木は、属する種別に極めて特殊な害虫のえじきになるからであり、他の種類の樹木に囲まれて育つことによってのみ、そのような災難を避けることが出来るからです。一ひとつの種にはそれ自体に固有な攻撃群団がいて、それは違う種の隣の木には全く無関心なのです。

しかし、それはまたほんの序の口です。

一つひとつのブラジルナッツの木は、ある種の蜂の小さな雄が訪れる蘭の一種を宿しており、その雄蜂はその蘭の花から特別な匂いを擦り出して仲間を誘い、はるかに大きな雌蜂をその木に連れて来ます。そしてその雌蜂はその木そのものの花の中にある花蜜しか食べないのです。その木の花がそのような進化を遂げてきた結果として、その雌蜂だけが花に入るに充分な強さを持つにいたり、雌蜂はその花にはいる過程で花粉に覆われるのですが、その花粉だけが隣接するブラジルナッツの木を受精させることが出来るのです。それ故に、隣接する木には、その雌蜂が、その雌蜂だけが、開花時に訪れる理由を持っているのです。

かくて、この特殊な「縁起」の循環は、アグチがはるか下方の森の底面で、複雑な相互作用の型のその他すべての要素と同じように、知らず知らずに自分自身の仕事をし、ブラジルナッツの次世代のための種子が森の樹木のどこか他所で、その多くは隣と充分離れたところで、比較的安全にその成長を始めるときに完成するのです。

しかし、解りやすいように直線的順序で私は話しましたが、実際には、すべての生起要素が同時に存在しつつ、一つひとつが継続的に、その活動の成果については何も知らずに、それぞれの働きをした結果であるということを忘れないことが重要であります。

しかも、この縁起的(相互依存的)体系のすべての構成員は、短命であり、「無常」であり、「空」であり、その継続している存在のすべての部分において、あらゆる種類の常に変化しつつある、生態学的、気候的、あるいは地質学的環境に依存しているのです。

本当に、古代の佛教徒にとっても、現代の科学者にとっても、すべての生物は「無常」であり、後者は今や共生の根本的な重要性を、つまり生ある2つ以上の有機体がお互いの利益のために密接な身体的連携を持つ共生というものの根本的重要性を認識し始めています。

事実、それは肉眼には見えない微生物から始まります。したがって初期佛教徒は知るよしもなく、その豊穣さと複雑さはダーウィンにもほとんど知られていなかったのですが、今や、共生発生学、つまり共生的関係から新しい生命体が発生することを論ずるこの学問が、進化の歴史において、生命そのものの歴史において、1859年のダーウィンの『種の起源について』の出版以来完全に科学的思考を支配してきた全面的な適者生存の競争という考え方と共に、非常に重要な役割を果たすということが自覚されつつあります。

共生の意義の理解は、ダーウィンの進化の概念の重要な役割と衝突するものでは決してありません。それはただ、異種間の協力が、新しく複雑な、多くの場合非常に出来栄えのよい、永続的生命体の達成へ貢献することを通して、生存競争の中で果たす重要な役割についての理解を、根本的なレべルで付け加えるだけです。

実際、すべての生物が本当に相互に関係しあっているという学説は、「すべての有の一如」という初期佛教の概念を科学的に理解するという方向に進めた大きな一歩と言えますが、この学説をそれぞれ独自に打ち立てたのは、チャールズ・ダーウィンと彼の同時代人、アルフレッド・ウォレスでした。

既にお話ししましたような、根が大事な養分を取り交わす真菌類の繊維細胞のお蔭で生存している森林のブラジルナッツ等の樹木から、私たちのほとんどがもっとよく知っている地衣類の植物にここで目を転じてみましょう。

おそらくあなた方も驚かれるでしょうし、私自身も実際驚いたのですが、そこですぐに解るのは、地衣類というのは、藻類の光合成細胞-藻類の含有する藍色細菌(シアノバクテリア)の光合成細胞-に一生涯依存している真菌類であり、非常に複雑な有機体であります。この藍色細菌というのは、たまたま、地上の最初期の生命体の中にあるものなのです。

私たちが買って食べる海草は、より大きくより複雑な藻類ですが、地球温暖化に関して論争したり恐ろしい予測をする人たちは、世界の大きな珊瑚礁を作るポリプ(口と触手を持つ固着性の個体)はそれが内蔵する単細胞藻類の光合成力に完全に依存していることを 誰でも知っています。

地上においては、世界中の緑は葉を光合成のために使うあらゆる種の植物から出ています。その光合成というのは、ほとんどが葉緑素を伴い、太陽光を使って二酸化炭素と水を養分に変える過程のことで、海洋の藻類と共に私たちや他の動物たちが呼吸する酸素のすべてを放出しているのです。

光合成は現実の植物に必要なばかりでなく、緑の葉や草で生きているすべての草食動物もまたそれに依存しています。これがまたその他幾層もの共生や共生的遺伝(シンバイオジェネシス)を引き起こすことになります。なぜなら、多くの草食動物は、その食の大部分を構成しているセルロース(繊維素)の消化を助けてもらうためにバクテリアに依存しているからです。セルロースは、他の方法では消化できません。

草食動物へは分類しがたいのが人間ですが、私たちもまた、摂取する食物の多くの消化のため、全体的健康の多面的維持のためにも、やや慎重に腸内細菌叢と呼称する、体内の無数な種類の細菌の存在ばかりでなく、その現実的なバランスに依存しているのです。

まことに、現代のアレルギーと広範囲にわたる慢性病の増加は、幼時における極端な衛生管理と抗生物質の過剰摂取によって起こる、このバランスの撹乱によるものかもしれないと思われますし、これは免疫組織の未発達や混乱を引き起こすことにもなっています。

なお驚くべきことがあります。ホモサピエンス(人間)の知恵というのは私には非常に疑わしく思われるのですが、そのホモサピエンスを含めたすべての動物は、すべての細胞の中にたくさんの特別な極微組織体を有しています。これは、呼吸作用とエネルギー生産に必要な生化学的過程を遂行するミトコンドリアで、これに依存しているのです。

ここまでお話ししてきたのですから、これから申し上げることにも、ほとんど驚かれないかもしれませんが、あなた方や私の中にあるミトコンドリアと、植物の中にあって類似した役割をする葉緑体は、かつて約20億年前には原始的な細菌でした。これがおよそ5億年前に、すべての多細胞有機生物が現在依存しているもっと複雑な細胞と共生的関係を結び、その中に包摂されたという確かな証拠があります。

同様にして、研究者たちは今やっと、人間のゲノムのどれほど多くが、複雑な生命体発展のどれほど多くが、ウィルスのお蔭を被っているかを理解し始めています。

現代科学は、本当に新しい次元を追加して、縁起という古代の佛教概念に新しい現実的意味を与えました。

この講話では、サンスクリットの言葉、プラティティアサムトパーダの「相互依存的生起(縁起)」という翻訳を、もっと一般的な「依存的生起」よりも好んで用いました。なぜならば、その言葉の意味は非常に頻繁に、ある結果がそれ自体の原因を変えることができるという往還的運動の体系を意味するからです。これは、複合的原因から次の段階の結果が生じるというような簡単な順序の生起ではありません。この縁起の往還的運動は、硬い石を削る弱い鑿の刃が削る行為そのものによって鈍る場合のように、瞬時に起こることもあります。あるいは、子供を生むという行為が女性を色々と変えていく場合のように、長期にわたることもあるのです。

事実、人間的観点からは、すべての行為が行為者を変えるというのは、避けることの出来ない事実です。

9年前阿弥陀佛の第18願についてお話しした時読み上げた詩で申し上げましたように、私たちは皆単独の実在ではなく、複雑な相互依存的生態系であり、常に他の類似の生態系と触れ合っています。

それにもかかわらず、ともかくもそういうことを考えたことのある私たち人間の大部分が、一握りの森林の土壌に地上の全人類の人口をはるかに凌ぐほどいる微生物から、そしてまた同様に1ヘクタールないし1平方マイル中に天文学的数で棲息するすべての昆虫から、私たちを区別し分離するような事柄に専念しようとしてきたのです。そこには、ほとんどの科学者も含まれています。

一例を挙げるならば、顔を識別するというのは、複雑かつ高度に発展した知的能力であって、ある種の哺乳類だけに、とりわけ私たちのような霊長類だけに出来ることだと長らく信じられてきたのですが、これは決してそうではありません。

ある種のスズメ蜂は、別な女王蜂の子孫と1つの巣を共にしています。そのため、それらの蜂は別な女王蜂の蜂をその巣で協力している別なグループのメンバーとして識別せねばならないのですが、それらの蜂は個々の蜂を他から区別出来るだけではありません。もし別々な人間の顔の正面と側面を見せさえすれば、ほんのわずかな訓練をするだけで、たとえ半横向きになるまで30度回転させても、個々の顔を認識し区別することが出来るのです。

これを知って私は自然に粘菌類に眼を転じました。

粘菌類というのは、単細胞のアミーバのような有機体の集合で、少なくとも600万年前に進化したものです。いかなる種の脳も持っていないのですが、新しい食源を見つけるためには、必要とあらばいつでも、一体となって出発できるのです。

人間は、あまり複雑でない迷路であれば、1、2回引き返すだけですぐに道を見つけることが出来ます。粘菌類も、ご想像通りに、はるかに遅いとはいえ、同じことが出来るのですが、出口の置かれた食源への最短距離から決して一度もそれることがないのです。そういう違いが人間と粘菌類にはあります。

そのような離れ業は、知性とは一体何かということを問わしめるものです。単細胞の有機体から、蟻や蜂や白蟻や数年前に私がお話したライオンの群れ、実に私たち自身の種である人類に至るまで、ひとつの種の中での個体間の協力には、利他主義と思われるものさえあるのですが、全面的な進化のための生存競争の中で起こる出来事について詳細な結論を出すのに、重要な役割を果たすのです。実際にある異種間の共生的関係は別にするとしても、です。

そのような広範な話題から、協力というものが私たち自身の個人的人間生活の実際的面で演じ得る役割に論点を変えてみましょう。私たちが日々作っている「迷想」-独立した自己という虚構(フィクション)-からの脱出は、佛教的な意味での「出会い」の真実義の中核をなすものであり、この「エンカウンター(出会い)」という英語に含まれている対抗とか敵対という日常的な意味合いとははるかに懸隔したものです。

二人の人間の間に真実の「出会い」があるためには、それぞれが「自己」という牢獄から、そして自分の言いたい、したいと思っていることへのひたむきな専心から出来るだけ遠くへ脱け出して、他者の心の中へ出来るだけ深く入っていかねばなりません。自分自身の観点からではなしに、他者の観点から物事を見ると共に、その背後にあるものを感知するのです。

両者がそのような行動をとる限り、「空」と「迷想」の両義が含まれているその言葉の最も深い意味で、そこには本当に「出会い」が生まれます。自己と他者の区別は消え去ります。

その上、「出会い」の意味の中核である「自己」専制からの脱出は、無条件的愛(無縁の慈悲)への門戸を開きます。悲惨と苦悩に満ちた世界において、一切を包摂する慈愛への門戸を開くのです。

「すべての有と無の一如」の暗黙の含意は、いかなる種の区別もないということであり、魅惑や嫌悪、歓喜や反感に焦点はないのです。一言で云えば、一切包括的な「無執着」です。

私が「無執着」を5つの基本原理の1つとして定義せずに、私たちの現実生活の助けとなる3つの理想の第2番目として考えたのは、2つの概念のこの直接的な依存関係のためであります。

現実的日常的に考えれば、「無執着」というのは明らかに「空」の一面であります。

個々の独立した実在と見えるものへ深く、分離不能なほど執着するというのは、そんな実在はないとすれば、明らかに無意味であります。私たちの依存の対象はすべて私たち自身と同様に「空」であり、私たちの五感と思想が順応している「迷想」の世界において「縁起」と「無常」に従属しています。

それは次に、第3の最後の現実的理想、「行為のための行為」という理想をもたらします。この行為のための行為は、「無執着」から流れ出るもので、「無執着」の一面であるといっても差し支えないかと思います。「無執着」というのは、対象に対してだけでなく、野望や欲望、財産や名声、功徳の蓄積やいかなる個人的な報償にも執着しないということです。

絶対的な意味での「行為のための行為」はしかし、もう一つの不可得な理想です。私たちの意識的な生活において、その実現に非常に近くなったとしても、私たちの決断や行為の大部分を支配している潜在意識的自己の内には、どこかに常に身勝手な動機が隠されているでしょう。

ご存知のように私は哲学者ではありません。多くの哲学的議論は私にはほとんど不可解だと思えますし、私たちの実際生活に関する限り、多くの場合、無関係だと思います。

しかしながら、一見非常に難解な哲学的言葉に対して、全く間違っているわけではない、ありふれた日常的な類似例を見出すのは、それほど難しいことではありません。

皆さま方はおそらく、この講話の題がどうして単に「すべての有の一如」でなしに、間に「と無」が入っているのだろうと思われたのではないでしょうか。

抽象的に言うならば、それはすべての区別の不在というところから来ていますが、石の多過ぎない善い禅ガーデンであれば、三輪精舎の庭でさえも、その答えを示すことが出来るでしょう。

何もない空間がそのような庭の創造の出発点であります。従って、簡単にお解り頂けるように、完成した庭の石の間の空間は、最終的効果としては、少なくとも石そのものと同じくらい重要です。

しかしながら、このような議論においてはいつも、使わざるを得ない言葉の含意について非常に混乱が生じやすくなります。そのことを理解しておくことが大事です。

例えば、「自己」という「迷想」は「非己」が存在する場合にのみ存在し得るように、「有」は「非有(無)」なしには不可能であります。この対比をすることで、「迷想」とその反対である根源的「実在」の並置がそれ以上に容易ならざる問題であるということを私たちは忘れてしまうことになるかもしれません。なぜならば、この迷想と実在の並置は、私たちがその「実在」が実際にどんなものであるかを必ず知らねばならないということは決して意味していないのですから。

最も簡単な類似例を挙げるとすれば、魔法使いや奇術師が宴会に招かれて、首尾よくいく奇術の真髄は、見ているのは「迷想」だということを充分に自覚する一方で、他方ではその奇術がどのように行われたか私たちが全く解っていないところにあります。

固いテーブルの上面さえも、その化学的構成の基盤である分子を見ることが決して出来ないという意味では、一つの「迷想」ですし、ましてや、その分子を構成しているらしい、その他には何もない空間を飛び回っている、原子の群れを見ることは出来ないわけです。そこまで理解したとしても、私たちは不可得な究極的実在に向かっての旅をまだほんの何歩か進んだに過ぎません。

進化の生存競争で発達した五感によって直接的に経験出来ることすべては、根本的な意味では存在しないし、ただ存在しているように見えるだけだという意味では、「一切は『迷想』である」というのは、正しいのです。

私たちが皆閉じ込められているこの「迷想」の世界は、人間として知覚出来る唯一の現実であって、それにもかかわらず素晴らしいものです。それは、色んな形で密接に関係しあってはいるけれども、他の動物や昆虫、バクテリアや粘菌類が経験する世界と同じでないこともまた明らかです。

しかしながら、少しばかり「有(存在)」と「無(非存在)」という主題に帰ってみましょう。龍樹と彼より大分前の大乗佛教徒たちが色と空は同一だと信じたように、すべての二元は究極的実在に超えられるものであって、二元はないということも思い出すべきであります。

この着想は、タイラが翻訳して2001年に出版された『笛の息』の中の三輪精舎に関する英語の和歌に集約されています。

この庭は

存在と
非存在から

石と
石でないものから出来ている

ここに
入って
ありのままになれば

存在と非存在は
等しい


小さな禅ガーデンについて言えることは、宇宙全体についても言えます。宇宙には何百光年、何十億光年もの広さの、ほとんど想像もつかないような空間があって、おそらくは瞬時にして生起・消滅する仮想素粒子で沸き返っており、宇宙の構造としてはその空間が星座そのもの、固体、岩石と同じくらい重要です。私たちの関心は大部分がその固形部分に集中しがちで、望遠鏡は最近までほとんどそこに向けられていました。

現代科学の機械はすべて、出来うる限り自然な感性的知覚と思考力の限界から脱出しようとする試みです。

これが根本佛教だと思う5つの概念の一つひとつは、経典や原始佛教、ヒンズー教やリグヴェーダ・ウパニシャッドの非科学的というか前科学的世界から出て来ているのですが、それは遠い昔に琥珀に閉じ込められた蝿のようなものではありません。

その5つの概念は、現代科学の世界でますます重要になってきており、過去12年間という短期間においてさえも、私が当時話した方向に驚くべき進歩を遂げています。

今日では何万人もの数学者や物理学者が、現代の言葉で「統一理論」というものを構築しようと、等式と物性の問題に取り組むためにその全人生を捧げています。その統一理論というのは、佛教の「すべての有と無の一如」に該当する科学的概念です。

小宇宙、極微の世界を論ずる量子力学と、大宇宙、時空の膨大な場を論ずる相対性原理の等式が全く対立しており、宇宙の内容の95パーセントほどが未知の状態にあり、重力が実際に何を意味するのかを誰も知らない現在、不幸にも科学者たちにはまだこれから歩まねばならない長い道のりがあります。

現在のところ、宇宙の活動を描写する相対性原理の等式は、まだ説明されていない膨張と共に任意の宇宙定数、ならびにダークマターとダークエネルギーという二つの未知を書き込む場合にのみ働くのです。このダークマターとダークエネルギーについては今や狂気のような研究が進行中です。

もっと不幸なことに科学は、すべての人間の作品の如く、基本的な限界の下に置かれています。科学は、“何”と“如何に”に関しては問うことが出来ますし、それらの問いにどんどん答えていつも胸をわくわくさせてくれますが、包括的な意味での“なぜ”を決して問いません。

ビッグバンはあったかもしれないし、なかったかもしれないのですが、実際には、実験されていない、あるいは実験不可能な、多数の仮定に基づいている理論というか仮説が、しばしば事実であるかのように受け取られています。しかしながら、なぜ宇宙のようなものがまず出来たのかという問いは、科学への委任事項の圏外ですし、いつまでたってもそうでしょう。

それはただあるだけであり、真の佛教徒たちとより賢明な科学者たちは、それをそのままに残すでしょう。

私がかつて『佛教とバガヴァド・ギータ』という私の話の中で引用させて頂いた、三千年以上前の『リグ・ヴェーダ』の中のあの素晴らしい一節を思い起こさざるを得ません。

「この創造がどこから来たのか---おそらくは自ずから出来たのかもしれないし、そうではなかったかも知れない---最上の天でこれをみそなわす者、その人だけが知っているか---あるいは知らないかもしれない。」


このことに関する限り、私たちは遠くまで来てしまいましたし、どこに行き着くでもなく長い時間を費やしました。

それにもかかわらず、現代科学の中で起こったことと今起こりつつあること、私たちが住んでいる世界と私たちが本当に微々たる役割しか果たしていない宇宙の非常に沢山の様相について常に急速に増加している知識は、「すべての有と無の一如」の内に継ぎ目なく融合している「空」、「迷想」、「縁起」と「無常」、どちらかというと抽象的なそれらの概念を具体的に肉付けし、それに新鮮な意味を加えることを可能にしてくれています。

それ故に、このような非常に重々しい野心的な話題は、それに相応しく非常に厳粛な結論で終わるのがいいと思います。そう思ったものですから、実は二年前にこの話の結末から書き始めた時にある句を詠んで、その後「原子調理書」と名付けたのですが、この俳句で私はこの講話全体を要約してみました。その「原子調理書」というのはこうです。

よく
見れば

銀河
と粥は

同じ
もの

Talks at Shogyoji

by John White

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