空について

「空」とは、基本佛教の五原理の一つであり、他の四原理は、「有と無の一如」「縁起」「迷想」「無常」である。

先般(三年前)三輪精舎で行った講演の冒頭で、下田正弘教授は、空は「仏教哲学の基盤である」と言われました。

ですから、こんな講題の話をお寺の皆さんにさせて頂くというのは、明らかに僭越至極なことでありますが、旧癖止み難くして、恐らくは死ぬ日まで、私は僭越な人間のままで終わるのでしょう。

去年正座の姿勢で坐りながら、「もしまた招待して頂けるなら、空が講話の主題になるでしょう」と皆さんに申上げました時、細川佳代子さんが「もう椅子を使う時でしょう」と言われたのですが、私は佳代子さんに「妄想(イリュージョン)に体を預ける気はしません」と申しました。

すると彼女は「あなたの講題は本当は妄想にすべきでしょう」と応えられました。実際に仰る通りです。なぜなら、空について話すのは妄想について話すことであり、妄想について話すのは空について話すことであるからです。

現実的必要に迫られて、あれとこれを区別し、あたかも別々の事であるかのように、ある日は空について話し、またある日は妄想について話すというのは、ありとあらゆるものの一体性という仏教の中心概念を忘れることになります。

私達の見ている日常世界には、勿論のことながら、絶対的な意味での空といったものはありません。

例えば、コップは決して空にはなりません。もし「これ」が入っていなければ「あれ」が入っています。例えば水でなければ、空気が入っています。そして私たちは「これ」だけを考えていて「あれ」を考えていないので、コップが空だと言うのです。

同様にして、実験室で人工的に作られたものにしろ、いわゆる宇宙の真空にしろ、完全な真空というもの、内にいかなるものも含まない空間といったものはありません。

一秒ごとに真空を通過する、実際には私達一人一人の中をも通過している、何十億ものニュートリノやガンマ線は別としても、「空」の空間は、空の中で忽然と生まれ出るや殆ど瞬間的に消滅して虚空に戻っていく素粒子に満ちています。

いっそう始末におえないのは、現在の科学的知識をもってしても、私たちの存在も含めて普通の物質を構成している原子構造でできているものは、明白にあると思われている宇宙の質量の約4パーセントにも満たないものらしいのであります。そして、その小さな全体の4分の3が行方不明のようです。

現代の宇宙空間に設けられた望遠鏡で、殆ど宇宙誕生の時まで、時のはじめまで、遡って行っても、私たちが観察する何百万億光年の星雲と異なった形の物質は、それは仏教経典の作者達が理解したような数字になるのですが、全体の1パーセントにも満たないだろうと思われています。

宇宙の96パーセントは、観察されていないところの、当面は観察不可能なところの、それについて無数の理論はあるけれども確固たる証拠はない、未知の物質で出来ているようだというのは、高慢の鼻を圧し折るような意見であります。しかし恐らくはこれによって、現代の科学者の全知識をもってしても、どれほど多く彼らの知らない事があるか、それを彼ら自身がどれほどまで認めているかが、よく理解されるようになるのであります。

それどころか、多くの理論物理学者によれば、起こりつつあるように見える宇宙の膨張の加速については、この膨張加速の原因となっているようなまだ解っていない未知なる力があると考えられ、そういうものを想定する以外の方法では説明しがたいのだそうです。

要するに、全ての発見、全ての謎の解明によって、沢山の新しい問題が引き出されることになり、有頂天になっている私達自身が、どれほど無知であるかということをいっそう深く自覚させられることになるというのは、科学というものの本性であります。

これは、物理学の抽象的、数学的世界において真実であるばかりでなく、私達自身の日常的生活という直接的世界においても真実なのです。

繰り返し繰り返し、いろいろな文脈で、申して参りました通り、過去は回復できませんし、未来は未知であり、それ故「今」が私たちの本当に知りうる唯一のものです。

しかし私は間違っていました。何故ならば、その今でさえも空であり、妄想であるからです。

かなり長い間私は「今」について考えてきましたが、去年の五月ふと一首の和歌を思いつきました。それは、上出来とはいえなかった二つの長い詩の凝縮版とでもいうべきものになりました。

今は
常に今なり

常に今に非ず
常に既往なり

常に
永遠なり

指間を吹き抜くる
夜明けのそよ風

思い遅くして
捕らえ難し


実際のところは、純粋に科学的な観点からすれば、私達が今何かをしているとか、今何かが起こっていると考える時はいつも、意識的にそういう思いを抱く何分の一秒か前に、私たちの脳内のニューロン(神経細胞)が、私達には解らない形で、発動しているのです。

私達が意識的に「今」を思う時、いつもそれは「あの時」になっており、私達を置き去りにして取り返しのつかない過去となってしまっています。私達をレアリティー(実在)と思うものへしっかりと繋ぎ止めるこの歴然たる錨(今)でさえも、妄想の世界のもう一つの妄想に過ぎないし、日常的に使われる意味ではなく、仏教哲学や経典で使われている意味で、空であります。

私達が生きている過去から未来への滑らかな一如の流れには、およそ知覚したり把握したりできるような固定点もなければ、静止の瞬間もありません。

私たちは皆この存在の流れに運ばれながら、しがみつくものは何もないのです。

しかしここでまた、非常に現実的な意味において、科学的な意味においてさえも、存在するものは全て絶えざる変化の流れの中にあるという仏教的直感は、傾聴に値するところが大いにあるように思えます。それ故、その流れによってどこに運ばれようとも、元気になれば起き、疲れれば休み、ありのままにあって、ありのままにあることを楽しむというのが、禅の意味であるということは、禅匠たちが様々に説いてきたところであります。

それは、私にとって、賢明であったことのない私にとって、少なくとも、知恵の始まりであるように思えます。

皆さんの方が遥かによくご存知の如く、仏教において空というのは、非独立的生起(縁起)、つまり、全ては相対的であり、何ものも自己を持たず、独立的個別的存在ではないという考えを指します。

経典の言葉によれば、逆説にまた逆説を重ねる絶対的一の世界においては、「色(形あるもの)は即ち空であり、空は即ち色である」といわれています。それは、全く区別や差別の存在しない、道理や思想や概念を超えた世界であります。そしてそれ自体は、私達が日常生活をしながら、感覚をもって感じ取り、思想をもって考えている、知的妄想の世界と別ではなく、同一であります。

しかし、常に言葉を超えている事柄に対してこれ以上多弁を弄する前に、恐らくはこの時点でちょっと一休みする方がいいかもしれません。この話を書こうとしていた最中のことですが、非常に楽しい夕食の後、夜遅く帰宅の途中で思い付いた空についての一つの考えを、皆さんに披露申し上げたいと思います。

空とは何だ

朝の太陽
樹間の風

我ありと思っている
自分自身

何も入っていなくて
いつも一杯な

コップ


しかしながら、どんなにつまらない事であっても、今は手許の仕事に戻ることにしましょう。以前私がお話しした際、諸々の経典に説かれている遥か昔の科学以前の直感的世界には、私にとっては二十世紀の科学の、今や二十一世紀の科学の、途方もない予観と見えるものが存在しているということを、話させて頂いたことを皆さんは覚えておられるやもしれません。

いうまでもなく、仏教の空との関係で相対性について語ること自体がアインシュタインを思い出させてくれます。しかし、科学は、もし光の速度とまではいかないまでも、それにかなり近いような速度で、選りすぐりの専門分野全体が進歩しているのです。

仏教徒として妄想について語るのが、もし至極最近十年前だとして、『ニュー・サイエンティスト』の昨年九月号表紙の太字大見出しの二つのうちの一つが「あなたの心は幻想である」になっているというようなことを、皆さんも私も一体予想できたでしょうか。しかし事実そうだったのです。

私はこれまでに、『金剛経』に依って、仏陀が繰り返し述べられた「一切の者は自己を持たない」という意味の言葉の幾つかの例を取り上げて話したことがあります。

疑いもなく仏教経典については何も知らなかった十八世紀の哲学者、デイヴィッド・ヒュームは、真剣な内省の後、『ニュー・サイエンティスト』からの引用ですが、「持続的なアイデンティティー(独自性)ではなくて、ただ感覚の束が見出されるだけである」と結論して、「人間は、信じられないような速さで継続し合う知覚、かつ絶え間ない流動のさ中にある知覚、そういう知覚の集合に他ならない」と主張しています。それを発見してすこぶる興味をそそられました。

今や、何人かの主要な神経学者は、普通は私達の経験の継続的、中心的、疑う余地のない特質として見られている私達の心、私達の意識が、実は幻想であるという結論に達し始めているのです。

「今」という文脈で私が既に語った、恐らくは驚くべき一例をとりあげるならば、私達の心的過程の多くは、というよりも実際にその殆どが、行動に先行する頭脳の電気的刺激が起こってから、私達が意識的に行動の決断を下す前に、半秒もの時間を要するということを自覚しているということは、まずありえないと彼らは論じます。

私達は、知覚と行動の集合体であり、そこでは意識はただ断続的に限られた範囲だけに現れるもののようです。そして、このような非連続の出来事から一貫した話を創り出すために、片方の頭脳が発達して、私達の正常な機能の特色である妄想の能力を発達させたようです。

また私は、頭脳の物理的過程や機能の科学的研究に没頭している現代の認識論者が、全く違う時代に全く違う世界でかなり異なる主題に関して、仏教経典の作者達が表現しようとしていた思想と平行するようなことをいっているのは、非常に面白いと思います。

随分前のこと、私は私の感得を要約する詩を書いたことがあります。皆さんは多分『笛の息』の中にあるタイラの翻訳でご存知のものですが、恐らくはこの特殊な文脈に関連があります。

私は
私の
この唯一の人生で
生きたいのちを数え切れない

一瞬一瞬が
死であり
新しい始まりなのだから

今の私が
どんな人間か

過去はどうだったのか

今から
一日
一月
あるいは一年経って
どうなるのか

どうして
語り得よう

私というものが
何を意味するかさえ
知らない私が


空という文脈において、物質的存在への不信、自己(我)への不信を説くに当り、仏陀は、見るからに難解そうでありしかも本当に難解なその所説を「そしてこれは子供たちや愚かな人々にも解ることです」という言葉をもって結ばれたといわれています。

最初に見たときから私は仏陀のその言葉に惹きつけられましたし、私がまだ勉強したことのないその言葉についての書物や学問的注釈があるかもしれませんが、その言葉はやはり相当に貴重なものだと思います。

ここで愚かな人々と仰っているのは、自己とか非自己というような概念によって考えるのではなく、大体は自分の行動について理由付けをしたりしないで、それは当然そうすべきだからということで、全く自然に自意識なしにただやることをやる、まさしく、そのような人々のことなのだと思います。

そしてこれは当然、子供たちとの関係にも当てはまります。

小さな子が段ボール箱で車や家や船の遊びをする時、子供は大人のような想像力の使い方をしていません。段ボール箱は家や車として考えられるような特別な一定の性質を備えているというようなことを意識してはいません。子供にとっては、それは全く家や車そのものなのです。

小さな子供たちは物事をよく覚えこむし、極めて利己的でありえますが、自己とか自己の持続性というような概念は持ちません。

五歳までの短い期間、子供たちは意識的に推理をしたり区別や差別をしたりはしません。大人の私たちには何か特別なものとして見えるものが、一瞬にして、これとかあれとかその他になり得るのです。経典の作者達は、子供たちが努力なしに空の世界に生きているのを見ていたのです。

美術学校で訓練を受けた専門的芸術家が、子供のように考えることなく絵を描ける能力に戻ろうと努力し、年齢を重ねてもその能力を維持出来るように努力する、現代美術というものはある意味で全面的にこうした芸術家の苦闘に関わりがあります。

もし私達のあらゆる知覚と意識的経験が、私達の意識の連続性についての確信とそこから生ずる自己意識が、全て幻想であり、全て空であるならば、悟りもまたそうであります。

しかし、それは、私達の全ての幻想にもかかわらず、あなた方と私と世界が、そして悟りも、存在しないと言うのではありません。

仏教徒にとって、空の世界と私達の住んでいる幻想の世界は、別々のものではありません。この二つは一体であります。

真宗信者であるあなた方にとって、正しく理解した浄土は、何か遥か西方にある未来の住処ではないと私は思います。浄土は今ここにあって、出現するとすれば、あなた方が現に生きているいのちの単なる一部ではなくその全体として出現するのです。

そこで私は、去年の講話でもそうしたように、全ての真実の仏教徒が、恐らくはいつの日か、何らかの方法でなんとかして、到達することを願って、まったく動く必要なく、そこに向かって旅している、その不可思議な終着点に関する和歌(57577の音節の詩)をもって、私の話を終わらせて頂きます。

それは、「さとり」という名の歌で、こうなっています。

無想の
想

と無知の
雲

言葉なき
和歌

穏やかに
緩やかに
夏の来るや

稲妻の一閃光---

呵々

Talks at Shogyoji

by John White

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