無執着について

無執着は、先の『現実の出会いについて』で示された仏教の5つの基本原理から流れ出る3つの実践的な理想のうちの3つ目である。

私は昨年、もしもう一度ここに来るように依頼されたら、無執着について話しましょうと申しました。それは、賢明な発言ではありませんでした。しかし一方で、賢明であるということが、私の特質であったことはかつて一度もないのです。

おそらく私は、この講話を書くための全ての努力に対する無執着を、賢明な禅師たちが法話の約束をしておきながらしたように、ただ黙ってあなた方の前に立ち、それから静かに歩き去ることによって、証明することができるかもしれません。

しかしそこには一つの障碍があります。

不幸にも私にとって、そういう行為の唯一の結果は、賢明だと思われることへの私の執着を証明することになるでしょうし、もっと悪くすれば、私の無執着への執着を証明することになるかもしれません。

ですから、愚かな私にできることは、皆さんに約束通りの話をさせて頂くだけです。

私がこの無執着という言葉を使おうとする時、また本当にこの言葉が使われるべきだと思う時、無執着は離脱と同じではありません。離脱は、通常は、離れ去ること、ある事柄からの分離を意味します。

無執着には、積極的であれ消極的であれ、そのような行為的意味はなく、何ものからか離れ去るということではありません。

無執着というのは、特別な対象や行動に関してではなく、自分自身も含めて全ての対象、全ての行動に関係する、ある持続的な理想的境地です。

しかし、無執着は、ほとんどの理想と同じように、最善を尽くして近づくことが出来るのみで、決して十分には達成できない何ものかであります。

私たちが肉体を維持するために食べたり呼吸したりしている限り、定義上私たちはそれに執着しているのであり、私たちに出来ることはせいぜい、私たちの対象や行動に対する執着を、そして自分自身に対する執着を、最小限に留めることだけです。

しかしながら、釈迦牟尼佛がその生涯の旅で見出したといわれているように、釈迦牟尼佛の長年にわたる極端な苦行や自己犠牲は、さとりに至る道ではなかったのです。

自己への無執着というものは、達成できる限りにおいて、自己への攻撃を意味しません。なぜなら、もし私たちが自分自身に対して安らかでなければ、どんなに努力しても、他の人々に対して安らかにはなれないだろうからであります。

キリスト教の「汝自身の如く隣人を愛せよ」と仏教の「他者を愛し自らを愛せよ(自利利他)」の根底にあるのはこれであります。

それでもなお、私たち一人一人にとって、自己への執着というものは、つまり、本能的にして、しかも根底的に見える、自己の非自己からの分離は、最も狡猾に全てに浸透していく、果てしない差異と対立の原因となっているものであります。そういう自己への執着によって、私たちは自らを繭のように包み込みますし、私たちはその自己自身への執着を、私たちの言語そのものの中に、一つのものを他から、私たち自身を私たちを取り巻く物から、分類し区別するために常に使用している言葉の中に、大事に仕舞い込むのです。

しかも、別の機会に皆さんに申し上げましたように、真実の出会いの基礎となるのは、自己を忘れるということです。

一切の差別と分離の回避、存在するもの全ての絶対的合一は、諸々の経典の絶えざる主題です。

その主題はおそらく、『金剛経』に繰り返し出てくる文章に、その最も著しい形を取るといえるでしょう。以前そういう文章の一例を長々と引用したことがありますが、その中で世尊は弟子の須菩提に、どのような衆生も自分は救ったことがないと宣言します。なぜならば、「救ったとすれば、如来(私)は自己を信じ、存在を信じ、生き物を信じ、人を信ずる事になるだろうから」です。

実際、私たちが個々の存在や物として見ているものは、全体の継ぎ目ない根底的合一からの放射であります。

その根底的合一は、さして意味のない、より柔らかで、派生的な形で現れていますが、私が数年前に書いたある庭の詩の根底にあるものです。この詩は私の友人のタイラ『笛の息』の中で翻訳しており、こんな詩です。

この庭は
				 
存在と
非存在から

石と
石ならざるものから出来ている

ここに
入って
落在すれば

存在と非存在は
等しい


禅ガーデンの石は、もしよろしければ、空間の間の空間でしかないと言っていいでしょう。

存在と非存在が、生と死が等しいということは、言うのは易しいけれども、そのように生きること、それを心底に感得することは難しい。

私が正行寺にお参りした最初の頃だったと思いますが、ある夕食の席上智明さまは私に対して、四十年以上一緒に暮らした妻に対する私の最後の言葉は何だったか、死に際して妻の私に対する最後の言葉は何だったかを尋ねられました。

翌日は容態がもっと難しくなるだろうと予想されたので、一、二時間の休みを取るために病院を離れていた夜間に、彼女は突然死んでしまいましたから、どんな言葉も交わしていませんでしたから、その簡明な善意の質問が非常に深く心を抉り、目に涙が溢れ出て、私は嗚咽してしまいました。

そしてその時私は智明さまに詫びました。というのは、それが悪い作法であったからとか、私の世代のイギリス人男性は公衆の面前で泣くことはないと考えられているからとかではなく、ただ単純に私が決してそのように反応すべきでなかったからです。

私が泣いても、彼女のために、何かができるわけではありませんでした。なぜなら、彼女はもう死んでおり、泣いてもどうにもならなかったからです。

私は、本当に、自分自身のために泣いていました。

バガヴァド・ギータの言葉によれば、「賢者は生きているもののためにも死んだもののためにも悲嘆しない」のですが、私は賢くなかったし、自分自身への執着を逃れることも、妻への執着を超えいくことも、できませんでした。

自分自身に対して、存在するもの全てに対して、安らかであり、愛して喪失を恐れず、喪失が来れば静かにそれに向かい合う、春の日の雨や緑の丘の一条の光が突然行ってしまう時のように。私にとっては、それが無執着の意味です。

存在しているけれども、というよりも私たちには存在しているように見えているけれども、存在しない世界、私たちの知り得るのはただそれだけであります。そして、そのような知識をもって安らかに生きることが、賢者の智慧の基礎であります。

『金剛経』の世尊の最後の言葉に

「星、暗闇、灯火、幻、露、泡沫。
夢、一閃光、雲 --- このように
 私たちは世を見なすべきだ」


とあります。

時に追われてはいるけれども、私たちは今を生きねばなりません。

過去は決して回復できませんし、もう行ってしまっています。未来は、私たちの知っている世界では、知ることの出来ないものです。

私に確かだと思える唯一つの事は、私たちの見ている夢から次の夢へと逃れようとして、つかの間のいのちに執着するあまり、そのいのちを死を超えて引き延ばそうとすることは、本当に愚かだということです。

もし私たちが天国を、楽園を、浄土を探すのであれば、私たちはそれを自分のまわりに、そして、自分自身の中に見出し、過ぎ去る継続的な各瞬間を、今、今、今、そこに生きるのでなければなりません。

天国に入るために、涅槃を達成するために、あるいは浄土に到達するために、功徳の蔵を蓄えんとして、現在善いことをしたり、しようとしたりすることは、私には全く見当違いのように見えますし、もし私自身のうちに起るとすれば、全く卑しむべきこととしてしか見れないようなことです。

できる限り隠された動機(下心)から自由になる、何をしていても行為のために行為する、与えられた瞬間にそれが私たちに正しいことと見えるから、ただそれだけの理由で、善いことをしようとする、そういうことが、私には無執着の中心にあるように見えます。

おそらくは、もし私たちがそうするならば、もし私たちが果てしない妄想の世界においてものごとをあるがままに見ようとするならば、悟りが来るかもしれません。

おそらくそれは来るかもしれません。おそらくは来ないかもしれません。しかしそれは全く問題ではありません。

もし私たちのいのちそのものへ執着しないことが智慧の道であるとすれば、そのいのちのうちに成し遂げた私たちの過去の業績と見なされるものに対して、あるいは私たちがそのいのちの流れの中で偶々蓄積した財産に対して、執着したり執着せしめたりすることの愚かさは、どんなに大きなものになることでしょう。

勿論、智慧と無執着について、抽象的に語ることは、易しいけれども、私たちの現実の日常生活の中で、賢明にして無執着であることは、非常に難しい事であります。

去年申し上げましたように、真実の出会いのために基礎を築くことができるのは、私たちのほとんどにとっては、小さな事柄の中においてであって、私たちが疎かにしてしまいそうなというか、ほとんど迷惑にも思わないような、小さな事の中においてでありまして、私たちを縛り付ける執着の絆を断ち切ったり弱めたりしようとする試みにおいても、同じことが真実であると私には思われます。

完成には手が届かないと知っているので、私たちの多くは、おそらく殆どといってもいいでしょうが、無執着というものを普通の日常的生活の無意識的中心とするために、何かをしようともしないし、殆ど全く何もしないのです。

私自身の最近の生活から殆ど滑稽としかいい様のないような実例を話させて頂きたいと思います。それは、今年私が無執着についてお話ししようと言ったことに起因するのですが、私には他の誰も横から口を出す事が出来ないほど頻繁に一生の間語りに語って来たという思いが起って来ました。

それで私は、なにやかや過去数年間の間に収集したものや、およそ半世紀ほどの間一緒に暮らして好きになったものなど、少々の芸術作品やその他の小さな宝物などに対する私の執着を、単に理論的に考えるだけでなく、実際に見てみるべきだと思い立ちました。

その上、遺言の場合は殆ど常に、人は誰かに何かを遺すのに、その人はそれほど好まないけど他の誰かだったら欲しかったかもしれないものを遺すことが多いからです。

ですから、続く数日の間に、私は少数の、極少数の、親友達に私のフラットに来て、好きなものを持って帰って下さいと頼みました。本当の友人でしたから、彼らはそうしましたし、実際非常に喜んでくれたことに、私は本当に驚きもしました。

彼らが持ち去ったものがなくなって寂しいとは思いませんでしたが、しかし一方では、彼らの持っていかなかったものを私はまだ楽しんでいます。

概していえば、それは、この話をするために私自身の上に課した小さな取るに足らない実験という以上の意味はなく、出だしのところでお話ししましたあの無執着への執着のむしろ悲しい証明とはなりました。

それはともあれ、私は自分勝手な生き方の中で、人生は善たらんためには極端でなければならないとは思いません。

無執着の問題に取り組む一つの方法は、キリスト教の新約聖書と仏教経典のいずれの著者達にも大変好まれているように、師に従うためには、経典の場合は、行為を避けて森や山で一人瞑想するためにはということになりますが、家を去り、友を去り、愛する人を去れということがあります。

今や一目瞭然たることですが、それは私が従うことのできるというか、従いたいと思う方法ではありませんし、ほとんどの仏教徒が、なかんずく真宗の信者が、とりたいと思う道でもないと、私には思えます。

僧侶も信者も、真宗の人たちは、恋をし結婚し、子供をもうけ家族を養います。

それで、私にとっては、そしてあなた方にとってもとわたくしはおもいますが、道は、逃げようとするのではなく、逃げようとすること自体が一種の執着になるかもしれないからですが、人生の戦いに参入すること、力の限り戦い抜いてしかも執着しないということ、戦いそのものだけでなく、戦いの結果にも執着しないことであると思われます。バガヴァッド・ギータの出だしのところで、君主シュリ・クリシュナが射手アルジュナに要請したように。

聖書やコーランや経典からの引用は、危険な戯れになります。なぜなら、シュリ・クリシュナがアルジュナに言うように、

「人はいっぱいのタンクのどちらからでも水を飲むことができるように、熟練した神学者はどんな聖典からでも自分の目的に適うものをもぎとることができるからです。」


それにもかかわらず、智慧の達成は私たち皆にとって究極的な目的ですが、この偉大な神話の文脈そのものが明かすように、

「何人も行為を控えることによって行為からの自由を達成することはできないし、単に行為することを拒む事によって完成を得ることも出来ない。-----なぜなら、義務のために行為することは、無行動より優れているからである。」


悲しくも、現在の私自身のこの活動によって、私が皆さん方のためにすることが出来たのは、一連の決り文句を束ねて、あたかも何か新しい事であるかのごとく、以前に何度ももっと上手に表現されてきたし、いずれにしても、皆さんは何らかの形で既にご存知のことを、皆さんにお話し申し上げたに過ぎません。

が過去二、三年間にお話ししました全てのことがら、出会い、慈悲、行為のための行為、無執着、それらはすべて、本当に、一全体の分かち難い部分、従う価値があるように思われる一つの生き方の分かち難い部分であります。

しかしおそらくあなた方は、遂に私の話が終わりに差し掛かった現在にいたるまでの間に、少なくともホワイト先生は、おそらくは最も逆説的な主題である「さとり」を扱うところまで行ってしまうほど愚かでなかったと考えておられるでしょう。

そこで今私は、その最後の慰めに関して、あなた方の誤解を解かねばなりません。

大分前のある夜、タイラは私に鈴木大拙先生のBuddha of Infinite Light「無量光佛」を海野大徹先生が編集した本をくれました。私に貸してくれただけかもしれませんが、私はまだそれを持っています。それで、私は帰り道地下鉄の中でそれを見始めました。

海野先生の序文の中最初の言葉は、「仏教はさとりへの八万四千の道を語る」でした。

しかしその時私は、ガタガタゴトゴト走る電車の中で、その文章の先には進みませんでした。なぜなら、私の頭に次のような和歌が迷い込んできたからです。

さとりへは

八万四千の
道あるも

いかにしてや
一を探さん

なぜならばどの道も
道ならず

踵を返して
みるまでは

Talks at Shogyoji

by John White

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