出会いの三輪精舎

次のような考えから、1994年に正行寺のロンドン道場が命名された。

真宗の実践の中心概念の一つは、出会いの重要性であります。すなわち、全く予知出来ない形で、しばしば広範囲に影響を及ぼす二人の人間の間の、一対一の相互関係としての出会いの重要性という概念であります。

本質的な予知不可能性の小さな実例の一つは、十年前の私自身の智明さまとの出会いと、それに引き続く数年間に亘る大勢のあなた方との出会いが、不思議な予測不可能な結果を生み出したということに見出せるでしょう。

本当に、仏教的な意味での出会いの重要性は、釈迦牟尼佛の生涯に実証されて以来、その後の十二、三世紀頃、法然聖人や親鸞聖人の生涯に実証されて以来、幾世紀もの間に、減少するどころか、むしろ増大してきたと私には思えます。

過去二世紀余の間に、世界が実際的に段々と狭くなってきたというのは、現代では自明の理であります。

電話、自動車、飛行機、そして今では、e-mailとインターネットの出現によって、その明白な世界縮小のペースは、劇的に加速して来ましたし、まだ現在加速しつつあり、そして疑いなく、来たる歳月も、そのように加速し続けることでしょう。

人間の活動のあらゆる分野において、瞬間的なグローバルな相互伝達の可能性は、過去には考えられなかった形で、新しい触れ合いを生み出しましたし、かつ現存の接触を維持する事を可能にしました。

しかも、この特別な自明の理の中心部には、私達のいのちの殆ど全ての分野と同じように、逆説があるのです。

世界の多くの国々の国家予算を遥かに凌ぐ予算案を持ち、主要な国の政府のコントロールをも超えるような力を持つ、多国籍的金融・商業機関による世界規模経済の

出現は、自分では権力を操っていない世界の大部分の人々には、増大する無力感を引き起こしました。

私たちの多くにとって、この無力感は、私たちが個人として出来ることは殆ど何もないように見える、戦争や飢饉や災害に関する世界規模のニュースの日常的襲来によって、一層酷いものになって来ています。

そういう現代的状況の中では、一個の個人的な出会いというのは、地球上の人口が、現在の世界人口のほんの僅かな一部分くらいしかいなかった時の状況に比較すれば、即ちその頃のわずかな人口のほとんどの人々にとっては、自分の村の僅か五百人の居住者だけが、関心を寄せるべき殆ど唯一のネットワークであるかに見えた時の状況に比べれば、現代における個人的出会いというものは、ほとんど取るに足らないもののように見えるかもしれません。

広大な都市集中、増大する家庭と仕事場の距離、大家族はいうまでもなく核家族の離散、こういう現象は、多くの人々にとって、個々の人間の個人的出会いというものの意味のさらなる破壊をもたらすものと見えるかもしれません。

他方では、世界中の全ての人が全ての他の人から僅か六回の握手の距離しか離れていないというのが、二十世紀民間伝説の一部でした。

しかし、私達の多くは、実際には、これを信じ難い事と思いました。

全く偶然に全然知らない人に出会って、自分が、別な国であるいは別な大陸で、何十年も前に短期間お付き合いしていたある人を、その人が知っていることが判明した場合、私たちは何と言う信じ難い偶然の一致だろうと考えるということを続けています。

実際には、「スモール・ワールド・エフェクト(世間は狭いエフェクト)」と呼ぶようになったものには、驚くほどのことは全くないのであって、その二十世紀民間伝説は、半ば信じていた人たちでさえも考えていなかったほどに、的中率が高くなってきたことが判明しています。

今日のコンピュータ化した社会では、ネットワークの概念は急速に親しみのあるものになっており、無数の科学者が、脳の内部組織から運輸システムの設計や種の進化に至るまで、全てのものにおいて、その数学的土台と内容的意味の究明をしています。

今は取り敢えず、私達一人一人が例えば平均三百人の個人を何らかの形で知っているとすれば、その場合約九万人の人々からわずか二回の握手の距離しか離れていないことになり、そして、それを延長してみれば、例えば六十億人の世界では、その内のどの人の名を呼びたいと思うにせよ、その人から僅か四回の握手分しか離れていないのです。

しかしながらこの計算は、私たち友人間の関係は全くランダムで(行き当たりばったりで)あるという仮説に基づいています。この仮説の下では、私たちは皆、アマゾンのインディアンを知っていると同程度に大統領を知っており、エスキモーを知っていると同程度にバスの運転手を知っているはずだということになっているのです。

私たちの殆どは、他の全ての人に関係しているのではないことがはっきりしている、小さな人間集団の内部で動く傾向がありますから、それが真実でありえないことは、歴然としています。

もしその代わりに、ネットワーク内に全くのランダム性に替わって完全な規則性を前提するとすれば、つまり、この世界の住人の一人一人が最も身近に住む三百人の人しか知らないとすれば、明らかにこれも事実ではないのですが、大部分の大衆は、例えば合衆国の大統領から凡そ一千万回の握手分離れていることになって来ます。

しかし、現実の世界では、ネットワークは、全くランダムでもなく、完全に規則的でもありません。実際はどこかその中間です。

その上に、ある一つのネットワークの異なった部分の間の相互関係をコントロールする基礎数学のコンピュータを使った研究調査は、最近、そのほかは全く規則的なネットワークに極めて少量のランダムな関係を加えてやるだけで、ネットワークの他の部分に到達するために必要な段階の数は、全くランダムなネットワーク内で必要とする非常に小さな数字に向かって、単に落下するのではなく、急降下していくということを証明しました。

ネットワークの性質に関するこのような抽象的数学的分析は、引き続き現場で実験されることになり、大きくて複雑な人間社会のネットワークという環境の中で有効に働く事が実証されました。

民間伝承と科学との無意識な提携の中で、私たちが何らかの出会いの機会に「世の中は狭いですね」という観察を述べる時、私たちは実際には、殆どの人々が理解している以上のことを言っているのです。

旅行とか世界規模のネットワークとか、あらゆる種類の情報技術というようなことから、現実世界の縮小と関連して、ネットワークの性質や「世間は狭いという現象」について、このような観察を私たちが受け入れるとすれば、個人的出会いの意味と重要性が、現代の世界では減少してしまったと考える妥当な理由が全くないということは、明白であります。

反対に、出会いの意味は、かつてよりも重要になっています。

しかしながら、現代の世界であらゆる瞬間に起こりつつある、数え切れない数の出会いの大多数が、個人対個人であれ、インターネットのような媒体を通してであれ、極めて浅薄であることも、又事実であります。

その反響は非常に計算し難く、かつ広範囲に及ぶのだとすれば、私たちが何らかの理由で重要だと思う出会いだけでなく、私たちの出会いの一つ一つにおいて、自ら最善を尽くすことが出来るように、私たち一人一人が、以前よりも一層大きな責任をもっていることになります。

以前お話しさせて頂いた時、どんなに短い期間でも、教師が接触する事になる学生一人一人に対する教師の責務ということについて話させて頂いたことがあります。

その責務というのは、クラスルームや講義室に、学校や大学の教師に限られているわけではありません。

特に、あなた方仏教徒にとっては、伝統の中心部に「出会い」ということの甚深の意味合いがあるので、この責務はある意味で特別な重荷となり、別な意味では歓びに満ちたものであるという風に、私には見えます。

それにもかかわらず、最も身近なものがしばしば最も簡単に見落とされるのです。

三輪精舎という形の正行寺ロンドン支部の創造に貢献なさったここに居られる皆さんはよくご存知のように、正行寺そのものの未来に向けて、より幅広い出会いのネットワークを作ることの重要性ということが、智明さまのこころの中心にあります。

三輪精舎の概念と出会いの概念、この二つの概念は、解き難く絡まりあっており、それ故私は、三輪精舎と出会いの意味に関して以前お話した事のある幾つかの事を、あなた方の中のいくらかの方々は疑いなく熟知しておられる事ではありますが、この話の文脈で繰り返す事にしたいと思います。

三輪というのは、勿論のこと、返礼を思わずに与える人(施者)と、与える人も受け取る人も傷つける事がないという意味で純粋な贈り物(施物)と、そして、贈り物の価値を充分に評価しながら負担感なしにそれを受け取る人(所施)、この三つです。

しかし、私には皆様方の前ではことさらにお話をさせて頂く資格がないように思われる、出会いという主題に関してはどうでしょうか?

二人の人間の間の出会いは、それそれが相手を発見する中で自分自身を発見するという発見の過程であり得るし、またそうあるべきだと、私には思えます。

そのような出会いにおいては、双方が与える人(施者)であり、双方が受け取る人(所施)であります。

それぞれが他に与え、それぞれが他から受け取る贈り物(施物)は、自らの一部です。

それに勝る贈り物はあり得ないし、あらゆる贈り物のなかで、最も与え難く、かつ最も受け取り難いものです。

あらゆる出会いの大部分は、うわべだけのものに過ぎません。なぜなら、与える人に自己のほんの一部しか与えたり示したりする用意が出来ていないし、そして、たとえそのほんの少しが与えられたとしても、それを受け取る人がしばしば自分の事にかまけ過ぎていて、贈り物をそれ自体として認識したり評価したりできないからです。

もし、これとは反対に、どんなに大きかろうとどんなに小さかろうと、その贈り物がそのまま充全に受け取られれば、そのこと自体が今度は、与える人への贈り物となり、受け取る人にとっては、自己を与える事の始まりになるのです。

最も深い次元での真実の出会いは、それ故に、大抵の場合は、私たちの殆どにとっては、滅多に近づけないものであり、愛の中においてさえも、おそらく実際には達成し難いものです。

しかし、もし私たちが到達し難い山の頂上に到達しようと努力しなければ、私たちは麓の丘陵を登ることさえ達成できないかもしれません。

いかなる次元であろうと、出会いなしには、もちろん三輪はあり得ません。

逆に、三輪なしには、深い意味での出会いはありません。

ですから、真の出会いのあるところでは、三輪は一輪であり、そして、相違から統一と調和が生まれるのです。

真宗の世界は、しかしながら、いろんな意味で、あなた方の周りにいる人々が住んでいる世界とは全く違います。

私達には常に、自分を与えるのではなくて、身を引いておきたいという誘惑があり、出会いは、それ故に、その語の普通の意味では、危険なものでもあり得るのです。

ロンドンにある物理的存在としての三輪精舎が、それ自体はいかに無意味なものであっても、正行寺の皆さんが旅することを選び取った「道」の象徴であるというのは、このような考慮に関連してにほかなりません。

三輪精舎を仏教的な意味で真に「あるべき場」とするのは、皆さん方です。

三輪精舎は、智明さまのご指導のもと、おそらくは、より深い、より吟味された、そしてより広くもある出会いを志向する、正行寺僧伽の願いの物理的投影であり、そのような投影に過ぎません。

あなた方は、佐藤平と博子が、いかにも明らかに彼らの真心を込めた深い出会いの意味への関わりだといえるものによって、その物理的投影から精神的リアリティーを作り出すように、この二人を選びました。

しかし、平と博子がいなくなって、あなた方がいなくなって、そして私がいなくなって、その後も永く、そのリアリティーが存続するかどうかは、皆さん方すべてと、結局は小さな郊外の家と仏壇と庭に過ぎないところ(三輪精舎)を既に訪れた人々、今訪れる人々、そしてこれから訪れる人々すべてとの間の出会いの深さと質に依るのです。

Talks at Shogyoji

by John White

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