三輪精舎石庭

この庭とは、1994年に設立された正行寺のロンドン道場である三輪精舎に1997年に完成した石庭のことである。

過去二、三月の間、非常に沢山の親切な人々が、三輪精舎の庭を賞賛してくれました。そして多くの人々は「あなたはそれを誇りに思われるに違いありません」と言ってくれました。

この暗黙の(言外の)問いに対する答えは、全く端的に「いいえ、そんなことはありません」です。

執着というものは、過去、現在、未来の何れに対してであっても、私達を束縛します。執着は、どれほどうまく制限しても、私達の自由を奪います。そして私達を虜囚(りょしゅう)にしてしまいます。

庭は、おそらく、私とは違って、綺麗です。庭は、私や私達の多くがそうであるように、沢山の欠点があります。

それにも拘わらず、庭を造った私達全てが存在するように、庭があり、そして、私があります---それは完了しました。しかしながら、それに満足している人は、いかなる人も、その目的と意味を理解していないのです。つまり、おそらくは、自分自身をも理解していないのです。

そしてその事自体が一つの逆説に導きます。いかなる満足や報酬に対する期待も希望も抱くことなく、どれほど私達が行為のために行為しようと試みても、そこには意味や目的の文脈というか、構想(フレームワーク)があり、どれほど行為の純粋さを求めて努力しても、私達はその構想から逃れることは出来ません。

この人生において、自分自身から完全に逃れることは出来ません。すなわち、行為と非-行為のいずれにも、完全な純粋性というものはありません。全ての行為において、また、全ての行為の節制において、私達は自分を盲目にする執着の繋縛を弱め、かつ破るべく、出来うる限り努力するということしかできないのです。

庭造りの無数の作業がいかほど行為のために行為されたのであっても、庭は、それが存在する今、ほんの始まりでしかありません。

庭は、それ自体としては、殆どいかなる重要性もありませんが、しかしそこから作り出されるもの、それは別な問題であります。

もし庭が、静かな瞑想や、日常的な心の乱れの鎮静を励ますとすれば、もし庭が、自分自身を、つまり私達全ての内に住む利己的な自己を、超え出て行かせるとすれば、庭はその目的を成就することになるでしょう。

もし庭がそれを造るために働いた人々に新しい視点を与えたとすれば、それもまた何か意味のあることでしょう。

しかし、たとえそうだとしても、その庭は、ロンドン郊外に、その大部分が素人集団によって造られた、小さな庭に過ぎないでしょう。その素人達と共に、その素人達の下に成ってまでして、真の専門家が、本当に謙虚な人々が、いとわず一緒に働いてくれたことでした。

これから幾星霜の中に一体何がこの庭から出来てくるのか、あるいはそれはどれくらい存在し続けるのか、私は知りませんし、知ることもできません。

私が知っているのはただ、あなた方が、あなた方がみんなで、それを可能にしたということだけです。

この世の何処にも先例のないような変わったお仏壇と、今建設中の二つの預骨壇、これらもまた、あなた方の信仰の創造、あなた方の寛大な心と資力と精神の創造であります。

根本的な意味では、遠隔地のセンターに出来た、これら全ての現実的建造物は、小さな町の道沿いにある具体的一寺院としての正行寺そのものを反映しています。正行寺の意義は、ただただ、あなた方の祖先やあなた方自身が、信仰によって、精神的センターとして、この寺を作り、育て、守ってこられた、その信仰の深さと質にこそあるのであって、三輪精舎の全ては、そういう正行寺そのものを反映しています。

あなた方の激励を頂いて、智明さまの賢明な指導力の下、平と博子の愛情溢るる指示によって、三輪精舎は、小規模で、見るからにちっぽけなものではありますが、既にそのようなセンターに成っていく道を歩んでいます。そして庭をご覧になったあなた方の何人かは、私に「あなたはそれを喜んでおられるに違いありません」と仰いました。

この形の語りかけに含まれている、このもう一つの問は、「あなたはそれを誇らしく思われるに違いありません」という問いかけよりも、答えるのが難しいように思われますし、私は本当になんと申し上げたらよいのか解りません。これは殆ど同じ問いかけですが、全く同じではありません。

また、この問いかけは、確かにそういう意図でなされた訳ではないのですが、しみじみ追憶させたり、もしこういう表現がお好みなら、満悦的観賞を誘ったり、あるいは心の中でその達成を喜ばせたりもするでしょう。そして、その問いかけは、智明さまが私達に考えて話すように仰った、「幸福とは何か」という問全体をもたらすことになります。

無執着とそれに伴う瞑想は、既に申しましたように、心の静まりと感情の鎮静化に導きます。インドだけではありませんんが、特にインドでは、それは静寂主義と完全な仲間離れへと導き得るし、しばしばそうなります。

しかし、偉大なヒンズーの経典、バガヴァド・ギーターが明々白々に示しているように、それはまた、行為のただ中での無執着と静寂に導き得ます---バガヴァド・ギーターにその文脈を与え、かつ、バガヴァド・ギーターの詩が前置きとなっている戦闘のような、最も激烈に見える行為の中でさえも、無執着と静寂に導き得ます。

これは、私が長年にわたって達成しようと努力してきた境地であり、私はそうした努力を、またぞろ繰り返す失敗の夥しい記録を残しながら、やってきました。

しかしながら、私達の現生の有り様の中には、全体としては静かで、全く感情が欠如しており、もしこう言う表現がお好みなら、幸福でもないし幸福でないのでもない、というような状態の、ただ単に消極的でしかないようなものが、余りにも多すぎると私には思えます。

何か私達の現生に先立つもの、あるいは何かそれに続くものが、あるにせよ、ないにせよ、現生においては、幸せというものが、もしお好みなら、それを喜びといった方がよいかも知れませんが、多くの人々が受けている痛みや病の苦痛のただ中でそれを達成するのは、信じられないほど困難なことかも知れませんが、そういう喜びこそ、本当に素晴らしいものである、と私は信じています。

しかし、幸せとは一体何でしょう。もっと難しくしてしまうかも知れませんが、真の幸福とは一体何でしょう。この世には非常に多くの、喜んでいるとは言えない人々がいまして、そういう人々は、幸せそうに見える人に対面すると、あなた方がもっているものは、自分が考えている幸せとは違うし、それ故それは真の幸福ではあり得ないといってはばかりません。

実際のところ、この問は答を持たない問であるか、あるいは現にこの問を要請するような特別な答を心にもって問われている問であるか、そのいずれかのように見えます。

私は哲学者ではありません。この今の文脈で、冗談を言うことをお許し頂けるならば、私は哲学者でなくて本当に「幸せ」です、と言わねばなりません。そういうことで、私に出来るのは、幸せということが、私にとってどう見えているかをお話し申し上げることだけです。

最強度の幸せは、もしお好みなら、それを真の幸せといってもよいのですが、そういう幸せは、決して取り戻すことの出来ない、過ぎ去りつつある瞬間としての現在、それが何をもたらすにせよ、その現在の喜びにあり、またその喜びから成っている、と私は信じています。

あらゆる感情の中で、愛は最も強い感情です。あらゆる行為の中で、愛の行為をするということは、単なる性的行為ではなくて、人を愛するということは、最も強烈な行為です。しかし、常に、もし私達の集中力が私達の愛する人々に向けられ、また愛する人のために何を与え何をなすことが出来るかということに集中できるならば、その愛の行為でさえも、私の言わんとしてきた意味で、「執着すること無しに」成し遂げることが出来ます。

それ故に、この点で、私は、バガヴァド・ギーターとも、多くの仏教やキリスト教の書物とも、愛の行為を嫌悪したり、あるいはそれを全く美化して唱導したりする点において、私自身としては、袂を分かたざるを得ないのです。

この点において、私の理解した所では、真宗信者としてのあなた方と、信仰の無い人間である不可知論者としての私は、一つであると思います。

過去は去ってしまっています。慢心や後悔をもってそれに執着するのは、間違いです。

私達の思い出す過去は、その時の計り知れない豊かさと複雑さ、その全ての中で実際に生きた、経験した通りの過去ではありません。

未来は解りません。それに執着するのは、愚かです。

私達が想像したり、希望したりする未来は、決して実際には実現しないかも知れませんし、それに到達しようと手を伸ばすことによって、私達は、過ぎ去っていく一々の瞬間ごと、私達が直接に経験出来る唯一のものである、この現在という感覚を失うかも知れません。

私達の未来への唯一の確かな道は、ここにまた、私がこの話しの始めに言及した、全ての行為にまつわる不可欠の構想(フレームワーク)という避けがたい逆説があるのですが、私達の唯一の確かな道は、常套句を繰り返すのをお許し頂けるならば、喜びをもって、善だと思われる行為のために行為すること、それがその逆説的状況の中で可能な限りは、その善を行う、出来るだけよく善を行うということです。

私にとっては、これが同時に幸せの意味であり、そして幸せを達成する方法です。

過去と未来に関する限り、一方では後悔、他方では心配が、現在を毒します。

そこから導かれるものは、私に取りましては、多くの真実の真宗信者にとっても同じだろうと思うのですが、浄土は、もしそれが存在するとすれば、あなた方のために、あなた方お一人お一人のために、あなた方の中にあるのだ、ということであります。

浄土はあなた方のつくるものです。

それ故、浄土への旅もまた、あなた方自身の内なる旅です。更に、それは私が一緒に行くことの出来ない旅です。

私に出来ることは、皆さんのご健勝を願い、自らの道を行かれる皆さんに手を振り、去って行かれるときに、最後の逆説を風に叫ぶだけであります。

その最後の逆説というのは、あなた方が既にそこに達しているのでなければ、今、この瞬間こそ、あなた方が到達へ向かう時である、ということです。

Talks at Shogyoji

by John White

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