1993
最初の正行寺講演
1994
第九回ロンドン会座講話
1995
禅ガーデンの創造
1997
正行寺の未来について
1997
三輪精舎石庭
1998
教育について
1999
初期仏教と現代科学
2000
出会いの三輪精舎
2001
現実の出会いについて
2002
無執着について
2003
空について
2004
禅と庭園の創造
2005
逆説について
2006
阿弥陀仏の 第十八の本願から 生ずるもろもろの反省
2008
現代科学と根本的仏教思想
2009
正行寺と佛教と言語
2010
飛石と公案
2011
佛教とバガヴァド ギーター
2012
正行寺の将来について
2013
浄土真宗とプロテスタントにおける信仰による義認
2014
禅ガーデン
2015
すべての有と無の一如
2016
迷想について
2017
一如と逆説と芸術
2018
仏教と逆説と実在
2019
芭蕉について
2020
仏教と俳句
2021
阿弥陀佛と超越と他者性
初期仏教と現代科学
智明さまが私の無知を十分承知の上で、期待というよりもむしろ望みをかけてではなかったかと思いますが、一連の最も重要な経典類が入っている二冊の本を私に与えて下さいました。
その時以来私はそれらの経典の多くを読み、また読み返してきました。しかしながら、当然のこととはいいながら、広範な領域に亘る仏教文学や仏教思想について、私はまだ全く無知な状態のままにとどまっています。
しかし、あなた方との出会いや佐藤平などとの会話を通して、だんだんと解ってきた一つのことは、個人的な出会いが真宗の伝統の中では極めて重要な役割を勤めているということです。
戸田健二とフレッド・アトキンスの出会い、それに続くエーザイとUCLとの出会い、UCLと正行寺との出会い、そういう出会いの影響は、今なお余韻を残していますし、これからも、微妙な潜在意識的な形でか、あるいは明白に公共的意義のある形でか、未来に向かっても鳴り響き続けることは疑いないでしょう。
智明さまのご指導のもと、あなた方は仏教徒として、実に情熱的に大冒険に乗り出し、イギリスと西洋世界において大きく一連の新しい出会いを果たしておられます。
しかしそこには、旅行そのものや、そこでの個人的出会い、遠国や異文化への発展など、その他の冒険もあります。
これらは、心の出会い、心の冒険であって、その中で最も重要で最も感動的なものの一つに、現代科学との出会い、過去ではなくて現在の科学との出会いがあります。
現代の非宗教的科学的視野は仏教にとって有害だといわれて来たことを知っていますが、たとえそれが本当であっても、今日の科学が諸経典の仏教や親鸞聖人の仏教と何等の共通点も持たないとするのは、仏教の歴史を最初の段階から誤解しているのだと私は確信します。
これが、私の僅かな知識に基づいて、一見異質に見える、敵対するようにさえ見える、二つの世界の関係に関して、全くの門外漢である私の心を感動させた幾つかのことを、今日あなた方にお話しすることを決めた理由であります。
観察可能な限り科学と信仰の間に常に隔たりがあるというのは、真実です。それは、科学というものはかならず証明されるべきものを、少なくとも理論的には証明されるべきものを、たとえその証明を得る手段が直ちに適用できないとしても、証明され得ることを条件に扱うからであります。
こういう基本的立場の必然的結果として、科学者達は、自分自身の特別な目的のために自分自身で創案し絶えず発展完成させようと努力している論理、厳密にその論理の限界内で研究します。
それでもなお、既に申し上げましたように、私は、現代物理学の諸々の発見と、現実(リアリティー)の本性に関する前科学的な仏教的直観との間の類似性に、繰り返し繰り返し、おそらくはナイーヴに(愚直な心で)、強い印象を受けて参りました。
初期インド仏教のテキストに繰り返し出てくる根本的命題の一つは、通常私たちが現実だと考えているもの、私たちが認識している宇宙、私たちが生活している世界とその世界内のすべてのもの、それらは一切はかない幻覚に過ぎないものであるということです。
しかし、そういう考え方は、見方によっては、現代科学の基本的な概念です。
仏教的世界観の場合もそうであるように、あなた方が坐っておられる硬い床や私の前のテーブルは、私たちの自然感覚による認識では、十分に現実性を持っています。
しかし私たちは、現代物理学の機械装置によって、根底の現実は、遠く離れて回転するいくつもの微細な宇宙からなる世界であり、一々の宇宙は大部分空虚な空間でできていることを知っています。
それは、原子核と旋回する電子と光子と素粒子で出来ている世界であり、それは私たちが自分自身の目で見、かつ自分自身の手で感じている世界とは全く違います。
それは、私たちが感じているこの様々な世界を構成し再構成するところの共通要素で出来ている世界です。すなわち、現実的であって、しかも幻覚でもあるような−多くのほかの生物が見るのとは全く違って、私たちが人間として見る幻覚でもあるような−世界です。
現代の心理学理論においては、私たちは客観的な外の現実の客観的な記録係に過ぎないという古い考え方が、私たち人間は外なる現実を構成していると思われるものの本当の意味での主観的な(主体的な)創造者であるという理解の仕方に、道を譲ったというのも、これまた真相であります。
画家には昔からよく知られていることですが、色彩の感覚から理解しやすい一例を取ってみましょう。その例というのは、すべての色彩は他の異なった色彩の隣に置かれると違って見えるということです。
たとえ私たちが、それが幻覚であるということ、そして顔料は本当に何も変わっていないということを充分に意識していても、それに関して私たちに出来ることは何もないのであって、その幻覚は持続します。
今や科学者は、色彩光線の光子(フォトン)を一つも反射しない頭脳内の白の領域が、他の適切な色彩に近接させられると、私たちには赤や青に見えるようになされ得るという、この驚くべき事実をコントロールする頭脳内諸領域とそのメカニズムの図面を作っています。
他の生物がこの世界を違う色彩で見ており、もしくは全く色彩なしに見ており、彼等の現実性と彼等の錯覚をもって彼等が成功裏に生きているというのも、勿論のことまた真実です。
これとあれの分離、私とそれの分離が、仏教経典では最初から否定されていますのは、現代物理学においては、素粒子の世界において観察者が不可避的に観察対象を変えてしまうという事実に匹敵しています。
要約すれば、観察者と観察対象は分離した独立の存在であることを止めるのです。
その上、私たちが素粒子の世界で見ているところは、過去・現在・未来のいかなる瞬間にも惑星の位置を正確に決定しうるとするアイザック・ニュートンの惑星軌道計算におそらくは最適の実例を見いだせる、十九世紀乃至それ以前の科学のいわゆる一連の「厳然たる事実」ではありません。
二十世紀の科学は、衝突し会うビリアード・ボールの固まりとして原子の世界を見た十九世紀的見解からは、本当に遠く離れたところまで前進して来ました。
例えば、軌道上の電子は、正確な予知によってではなく、ただ蓋然性(確率)によってのみ描写されうるのであって、今日の科学の多くが扱うのは転移し相互に作用し合う蓋然性の世界です。
本当に、現代科学にとっては、私たちに身近な固体の世界は、以前科学者が考えていたより、遥かに固体性が少ないのです。
私たちすべてが所属している物質世界のよく知られている側面である質量が、エネルギーと交換可能であるというのは、現代の相対性理論の根本的な概念です。
今や有名なアインシュタインの E=MC2という方程式は、平たくいえば、エネルギーは質量掛け光速度の自乗に等しいということですが、すべてのそういう方程式の如く、M=E/C2、つまり質量はエネルギーを光速度の自乗で割ったものに等しいと表現し直すことも出来ます。
今日の科学のもう一つの著しい特徴は、その数学的土台にかならず含まれている驚くほど大きな数字です。
現代の並行処理コンピューターは、既に一秒間に数百万とか数兆という計算速度を獲得しつつありますし、また私たちが宇宙の星座の数とか距離を見たり、一立方センチの中にある素粒子の数を測る時、兆とか兆の自乗というような数字が出てきます(この話の中では、一ビリオンは一兆として下さい)。
ですから、これが時間の観念になりますと、地球の誕生が、西洋のキリスト教徒の間では十九世紀までは一般的に、聖書の文言の解釈からして、紀元前四千五百年頃に起こったと考えられていたというのは、非常に面白いと思います。
初期インド仏教の文献や経典との対照は、極端この上ないものといえるでしょう。
インド仏教の思想では、時間の単位で最大のものは劫(カルパ)です。劫は、別な言い方をすれば、一片が一由旬(ヨジャナ)の立方体、一由旬というのは十一キロメートルから十五キロメートルの間のどこかにある単位ですが、そういう大きさの立方体の容器に詰まっているマスタードの種を、百年に一つずつ取り除くとして、それを空にするのに要する時間です。
明らかに正確な定義は不可能ですが、さる権威の計算によれば、一劫は四十三億二千万年の範囲の中のどこかにあるということです。
その他にも、劫に比べると小さいけれども、百万年に当たる那由多(ナユタ)とか一千万年に当たる倶胝(コティ)とか、相当大きな単位の数があります。
かくて、『大無量寿経(梵本)』の極楽国土の叙述に関する一節「もし如来が望めば、アーナンダよ、如来は一つの施物で一劫、もしくは百劫、もしくは千劫、もしくは十万劫、もしくは十万那由多倶底劫までも、いやそれをも越えて生きることが出来ます。(発起序・出世の本懐)」というところまで来ると、私たちは四百三十二億兆年(43,200,000,000,000,000, 000,000 years)、もしくはそれ以上を語っていることになります。
同様に、「アーナンダよ、遠い遠い昔、今から無量劫の昔、無量劫以上の昔、不可思議劫を経た昔、その時、その瞬間、ディパンカラという名の聖なる完全に覚った如来が世に現れた」という節において、私たちは今は無限と呼ばれるだろうものの概念に近寄ってきます。
それから凡そ千年後、親鸞聖人の教えを反映している『歎異抄』の第十四章に、経典によれば罪人は十回の念仏で八十億劫、つまりおよそ三千四百五十六億兆年(345,600,000,000,000,000,000,000 years)の間に造った罪の結果から解放されるとあります。
次に時間ではなしに空間の概念を見てみますと、『阿弥陀経(梵本)』(正宗分)には、「世尊は『サーリプトラ(舎利弗)よ、ここから百千倶底(一兆)の仏国土を通り越した西方に、極楽という仏国がある。⋯⋯』と言われた」とあり、『金剛経』(第二節)には「世尊は『スブーティよ、もし良家の子女がこの一兆の世界の領域を七宝で満たしたら、あなたはどう思うだろう』と言われた」というような文章があります。
このような文章は、科学ではなく、神話や信仰の領域に属するのですが、私は無知な科学者ならぬ人間として、そのような文章と私たちの住んでいる宇宙が存在した幾兆年もの時間に関する二十世紀後半の科学的認識のとの間の相似性を考えざるを得ません。殆ど想像もできないような広大な時空に形成されてきた、そしてまだ形成されつつある、何兆もの星座の中の特別に重要というわけでもない私たち自身の星座にある何兆もの星というような科学的認識との相似性を考えざるを得ません。
『金剛経』のもう一つの驚くべく特徴は、個性と分離に関するはかない幻覚の背後にある、一切のものの絶対的一体性について、繰り返し巻き返し、断固たる言明をしているということです。
第二十五節において、仏陀の宣言していわく、「ではどう思うか、スブーティよ、如来は衆生が自分によって救われたと考えるであろうか。スブーティよ、そう考えるべきではない。何故に? それは、如来によって救われた衆生はいないからである。そしてもし如来によって救われた者がいるとするならば、その場合如来は我有りと信じ、衆生有りと信じ、有情有りと信じ、人有りと信じていることになるだろう。我有りと信ずることは、スブーティよ、如来は我有りと信じないと説かれている」。
第三十節には、仏陀への返答として、「スブーティは答えた⋯⋯『そして如来によって一兆の世界の領域として説かれたもの、それが如来によってそのような世界の領域はないと説かれた。⋯⋯何故だろうか。世尊よ、それは、もし諸世界の領域があるとすれば、物質有りと信ずることになるだろうからである。そして如来によって物質有りと信ずることとして説かれたこと、それは如来によって物質有りと信じないこととして説かれた』。それから世尊は『スブーティよ、物質そのものへの信は、言語道断、表現しがたい。それは物でもなければ物でないのでもない。このことは子供や無知な人々が知っている』と言われた」。
要するに、この世界の幻覚は、我と非我の認識、個々別々の存在の認識を含めて、十分にリアルではあるけれども、存在しかつ存在しないすべてのものの分かち難い一体性(一如性)という根底的な現実(リアリティー)ではありません。
それ故に、現代物理学の最近の理論の中に−これは「理論」に過ぎないということを強調しておかねばなりませんが−この大昔からの考え方への類似点があることを見出すのは、とても面白いことです。その最近の物理学というのは、この宇宙は五十年前でも考えられていなかったほど極端な一体性をもっていると見ているのです。
再度申し上げますが、この一体性は、宇宙が形成されている原子と素粒子の世界にあるのであって、量子論の領域であります。
私たちは今やアインシュタインの相対性理論に通じており−通じている(familiar)というのがここで適切な言葉であるならばの話ですが−この理論によれば、いかなる信号もいかなる情報項目も、宇宙の一部から他の部分へ、それが近かろうと遠かろうと、光速度を越えるスピードでは移動できません。
しかしながら、素粒子の量子界では、電子とか光子というようないかなる粒子でも、一つの粒子がもう一つの粒子と相互作用するときは、この二つは、日常語で言えば、「絡み合った(entangled)」ものとなることが、至極最近に証明されました。
ある意味でその二つは独立した存在であることを止め、お互いの関係の中でのみ叙述され得るのです。
例えば、電子は広く「アップ(up)」状態と「ダウン(down)」状態で存在するのですが、分離した絡み合った状態の一対の粒子に関しては、一方の端でのアップ状態の観察は、他方でダウン状態があるだろうことを保証し、またその逆も真であります。
こういう結果は、しかしながら、全く制御不可能です。
どの粒子を観察しようとも、アップもしくはダウンの状態を出鱈目ながら(randomly)等量に見出せます。
ですから、外の観察者によってか、絡み合った粒子の一つによって、もう一つの粒子にメッセージを送るために、その関連現象を使い得るてだては全くありません。
因果の連鎖の場合とは違って、結果は本質的に無定位(non-local)ですから、その上、続いて絡み合った粒子を分離することになるだろう、広大な宇宙全体にまたがる距離に、制限はないのです。二つの粒子は何処にあろうとも、存在する限り、それらは絡み合っているのです。
それ故、相対性が宇宙のさまざまな要素にある程度の分離と個別性を維持し因果の法則を護っているところで、量子の絡み合いは、その固有な出鱈目性 (randomness) によって、逆説的に宇宙全体を緊密な関係性の中に保っています。
そのような一体性は、その存在の理論を形成した実験や等式に熟通していない、科学者以外の素人には、本当に信じ難いことです。しかし、確かにここには、熟考を重ねた論理としての科学が、仏教経典に説かれている直感的な前科学的な概念に接近しているということがあります。
『大般若波羅蜜多心経(梵本)』において、「色(形あるもの)は空であり、空は実に色である。空は色に異ならず、色は空に異ならない。色であるものは空であり、空であるものは色である」とあるのを読む時、宇宙空間において粒子が絶えず生まれかつ消えている様を現代科学が自覚しているということを思い出さざるを得ません。
最後に、一個の簡単に見えるけれども想像できないくらい深い意味を持つ等式の三用語(光速度とエネルギーと質量)の中でエネルギーと物質が互換性をもって一体化している世界において、心と物質の一体性(物心一如)はもはや不思議なこととは思えなくなり、その替わりに力強い前提となっています。
先に触れた私と私ならざるものの一体性、観察者と観察対象の一体性は、確かに質量(物質)と原子や素粒子のエネルギーの一体性と符合します。なぜなら、そういうものが私の頭脳であり、思想はその相互作用から現出して来ているのですから。
経典の作者にとっても、今日の最も進んだ実験物理学者、理論物理学者、数学者にとっても、すべての宇宙が一つであるならば、皆様方と同様に、私が物心一如(一体)でないと考えることは、以前思っていたよりも遥かに難しく思われます。
私たちの自分自身やお互いについての認識と結果として生じる行動は、その物心の分かち難い一体性から出てきているのです。それで、私は今年の初めに書いて平に見せた一つの詩を皆さまの前で朗読して終わりにしたいと思います。そしてこの詩は、それが私自身である私の幻覚に関する私の認識について、あなた方に何かを告げるでしょう。
こういう詩です。 私は色んな形で 卑しむべき 人生を 生きて来たし、 そして私が 正しいと 思われることを した時は、 もしくはしようとした時は、 何らの徳も 賞賛すべき内容も、 なかった。 私がそれをしたのは、 本来 好きだったからだ。 * でも人生は 不条理、 そして私は 幸せな人間である。
Talks at Shogyoji
by John White